太田述正コラム#2321(2008.1.25)
<世界帝国とその寛容性・包摂性(その2)>(2008.7.30公開)
 (6)オランダ
 オランダは、1492年から1715年にかけて、欧州各地で宗教的迫害を受けたユダヤ人やプロテスタントの難民を、彼らの金融資産とともに受け入れた。
 オランダの繁栄の否決は、商売の業を磨くことに専念し、世界を軍事的に征服することなど全く試みなかったところにあった。
 オランダの滅亡は、オレンジ公ウィリアムがイギリスに攻め込み、ジェームス2世を王座から追放し、オランダ海軍をイギリスに移植し、オランダのユダヤ人銀行家達と熟練工達をロンドンに連れて行き、かつオランダの移民と宗教的少数者を歓迎するというビジネス・モデルをイギリスに伝授することによってもたらされた(注4)。
 (注4)コラム#1794も参照されたい(太田)。
 (7)英国
 英国は、欧州ではどこでも嫌われていたユダヤ人やユグノー、それにスコットランド人を迎え入れることによって勢力を拡大した。これらの人々の貢献がなければ、英国の金融・産業革命は成就しなかっただろう。
 特に大きかったのは、1707年のイギリスとスコットランドの合邦(union)だった。
 これにより、英国王は、イギリスの北方の辺境の恐るべき企業家的・知的・戦争好きにして貧乏な人々を世界中における新しいプロジェクトに投入できるようになり、大英帝国を世界に広げることが可能になったのだ(注5)。
 (注5)「スコットランドの近現代への貢献」シリーズ(コラム#2279、2281(いずれも未公開)、未完)参照。(太田)
 ただし、イギリスがもう一つの隣接民族たるアイルランド人を成功裏に吸収することに失敗したことは、英国のインド統治の前途に不吉な予兆を与えることとなった。
 (8)米国
 米国については、特に説明は不要であろう。(太田)
 (9)失敗例
 イベリア半島は、1478年に異端審問を開始したことで、比較的に寛容であった歴史に終止符を打った(注6)
 (注6)コラム#2022、2028(いずれも未公開)参照。(太田)

 そして1492年には、共同君主であったフェルディナンドとイサベラがユダヤ人に対し、カトリックに改宗するかスペインを去るかの二者択一を迫った。その10年後にはカスティリア地方のイスラム教徒に同じ二者択一を迫った(注7)。
 (注7)コラム#146参照。(太田)
 このようにスペインは公式に非寛容政策を採用した結果、爾後次第に衰亡して行くことになる。
 ナチスドイツは、征服した数百万人とドイツ国民数十万人を殺害することによって計算できないほどの人的資源をドブに捨て去った。
 その中にはアインシュタイン(Albert Einstein)、フォン・カルマン(Theodore von Karman)、ウィグナー(Eugene Wigner)、ジラード(Leo Szilard)、ベーテ(Hans Bethe)、テラー(Edward Teller)、マイトナー(Lise Meitner)らがおり、その多くは世界最初の原爆をつくるのに決定的な役割を果たし、米国をして第二次世界大戦に勝利することを可能ならしめた。
 ナチスドイツは、世界史において最もばかげた自傷行為を行ったのだ。
 このように、宗教的正統性や人種的純粋性に固執することは帝国の形成ないし維持を不可能にするものなのだ。
 同じ過ちを犯したのが戦前の日本帝国であると言えよう。
3 書評子達の声
 ある書評子は、チュアの歴史観は単純すぎると指摘する。
 寛容性・包摂性を戦略的・戦術的に駆使するだけでなく、バランスよく非寛容性・非包摂性を戦略的・戦術的に駆使することによって、初めて帝国は掲載され、維持されてきたのだ。
 例えば米国は、インディアンに対して非寛容的・非包摂的であったからこそ、(地理的意味の)欧州から移民を受け入れることができたのだ。
 また米国は、第二次世界大戦の直前と最中にユダヤ人の科学者達を受け入れる一方で、日系米国人を収容所に収容した。
(続く)