太田述正コラム#13420(2023.4.13)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その33)>(2023.7.9公開)

 「・・・海軍側軍法会議で<は、>・・・論告案の正文は・・・山本孝治<(注111)>・・・検察官の起草後、大角<岑生(コラム#13183)>海相のほか、藤田尚徳<(注112)>次官・山田三郎<(注113)>法務局長・寺島健<(コラム#13183)>軍務局長らが協議して、決定された・・・。

 (注111)1885~1934年。府立一中、三高、東大法、長岡出身で、新潟県庁勤務を経て高文合格。
https://hikarataro.exblog.jp/30249531/
 (注112)1880~1970年。旧津軽藩士の子、海兵29期(115名中15番)、海大10期。「1928年(昭和3年)12月には人事局長就任。以後、艦政本部長、海軍次官、呉鎮守府司令長官、軍事参議官など要職を歴任。
 1939年(昭和14年)、海軍兵学校同期の高橋三吉と語らい、米内を現役の海軍大将で残すため、自ら予備役を願い出て編入の後、明治神宮宮司を経て、1944年(昭和19年)9月から1946年(昭和21年)5月まで昭和天皇の侍従長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B0%9A%E5%BE%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
 (注113)不詳。

⇒藤田尚徳も旧津軽藩・・やはり近衛家と一心同体士だった(コラム#省略)・・士の子であり、最初から秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であった可能性が高く、大角が次官に据えたのもそのためであったと思われ、また、終戦をめがけて侍従長に送り込まれたのは、昭和天皇への目付目的だったのではないでしょうか。(太田)

 <従って、こ>・・・の成案は、・・・山本検察官のスタンドプレーではなく、海軍首脳部の意向を踏まえて作られたと考えるべきであろう。・・・
 <それ>は、被告に同情的な陸軍側の論告と異なり、被告の犯行の違法性を厳重に指摘し、秩序の維持を重視するとともに、被告側の主張を全面的に論破する内容であった。・・・

⇒恐らく、世論を一層喚起する目的で、杉山元らが、大角海相に対し、海軍側の論告内容を厳しいものにするよう求め、大角らがその通りにした、ということでしょう。(太田)

 特筆すべきは、海軍側の論告文の内容に対して、強く反駁したのが陸軍であったことである。
 福本亀治<(注114)>憲兵大尉は憲兵司令部内の軍警会が発行する『憲友』誌上で、山本孝治検察官が「軍人勅諭」を引いて軍人の政治関与を戒めたのに対し、真向から反論を加えている。

 (注114)「<杉山元陸相、阿南惟幾兵務局長、田中新一兵務課長の下、>1936年・・・7月には陸軍省官制改正が立案され,防諜を担当する兵務局兵務課が8月に新設されます(軍務局は国防思想の普及や思想対策を担当することとなる)。
 兵務課新設を受け,極秘の防諜機関を課内に設置する準備が進められます。
 これが極秘防諜機関「ヤマ機関」であり,1937年春に開設されました。ヤマ機関は兵務課の分室として位置付けられ,「警務連絡班」と呼ばれていました。
 勤務員は陸軍省兵務局附とされましたが,陸軍省職員録に名前が掲載されることもありませんでした。初代班長は秋草俊中佐(対ソ連諜報で活躍),副班長は福本亀治少佐(元東京憲兵隊特高課長),主務は岩畔豪雄少佐が担いました。
 3名とも後に陸軍中野学校開設に携わった人物です。」
https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/mkmht0000001s0ui-att/3_5_2022V.pdf
 「秋草中佐と二人<で>秋草中佐の同期で当時陸軍科学研究所の班長であった篠田鐐中佐(理学博士)を訪問し一切の科学的関係諸器材の検討作製等を依頼し、その承諾を得た。
 又秘密的諸施策や工事等に閲し逓信省の担当課に直談したところ、担当課長は極めて剛腹な人で、自己一人の責任に於て秘密的諸工事一切の実施を承諾せられた。
 又文書諜報等に関しては担当課長の責任に於て承諾され、関係往復文書に対する諸工作実施に関しては担当課長一人の責任で承諾を得たので、運搬車(秘密文書等の運搬)の運行等に閲し特に警視庁交通部長の黙認を得た。
 機関の職員は全部私が特高課長時代の特高課員中から極めて優秀な准尉以下約十名を機関工作員として転属された。・・・
 昭和十二年の初頃であったと思う。私と秋草中佐が兵務課長から呼ばれて『次の休日に秋草、岩畔、私<(福本)>の三名で阿南兵務局長の私邸を訪問せよ』と伝えて来た。三人は次の日曜日に相い連立って当時東京市郊外の三鷹(現在の三鷹市下連雀)に在った局長宅を訪問した。局長宅は武蔵野の面影を残している未開拓地の畑の中に在った。
 局長より既に創設した科学的防諜機関の成果に就て謝意を述べられた後、『現在の国際情勢は益々緊迫をつげ、国際秘密戦対策は緊要となりつつあるので科学的防諜対策等の外、秘密戦実行要員の養成が必要となってきた。科学的防諜機関の運営は之を他に譲り、秋草、岩畔、福本の三名が実行委員となって至急に秘密戦実行要員養成機関の創設を検討せよ』との指示があった。そして三名が「要員養成教育機関設立委員」を命ぜられて建設準備に着手した。・・・
 要員養成等には参謀本部はロシア課を除いて他は全部が反対であったため、其等の経費を公式に要求することは不可能であったので、養成所の中野設置決定は極めて困難を状態に立ち到った。
 そこで私は秋草中佐と協議し、私の独断で解決したいと考え、秘に帝大派遣卒業学生を以て構成して居る懇親会の友人達と交渉し、経理局の主計課長や建築課長等と協議したところ、建築課の配当予算を流用して整理、清掃、電柱・電線の撤去、張替え、廃屋の改修及び本部充当家屋一棟の新築費用等全部を負担実施することの承諾を得たので「学校の創設準備」に取りかかった。」
http://www.npointelligence.com/NPO-Intelligence/study/pic106.pdf
 「中野学校<は、>・・・岩畔豪雄中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となってその創設を決定。岩畔、秋草俊、福本亀治各中佐を中心として1938年(昭和13年)3月に「防諜研究所」として新設。同年7月より特種勤務要員(第一期学生19名)の教育を開始した。1939年(昭和14年)5月に同研究所は「後方勤務要員養成所」に改編、7月には第一期学生の卒業を迎える。1940年(昭和15年)には「陸軍中野学校」と改名し、1941年(昭和16年)には参謀本部直轄の軍学校へ転身する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%AD%A6%E6%A0%A1

 いわく、勅諭は軍人による政治への「関与」ではなく、政治への「拘泥」を諫めているものである。さらに「国防の重責に任ずる軍人」がその本分をまっとうするために「政治に全然無関心であることは許されない」として、その職務に関する限り、むしろ積極的に政治へ関心を持つべきだと論じた・・・。」(205~206、208)

⇒福本亀治の論考は、杉山元らの指示に基づいて執筆・発表されたものでしょうね。
 (憲兵は陸相・・当時は杉山!・・の直轄下にあります。)
 この福本亀治の経歴の調べがつかなかったのですが、東大派遣学生だったようで、その時の人脈をフルに活用して、防諜のヤマ機関と諜報の中野学校の立ち上げを岩畔と二人三脚で行ったわけです。
 まさに八面六臂の活躍と言うべきですが、恐らく、(岩畔と並んで)福本にも杉山構想が開示されていたのではないでしょうか。(太田)

(続く)