太田述正コラム#13426(2023.4.16)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その36)>(2023.7.12公開)

 「・・・五・一五事件から6年後。
 1938(昭和13)年7月4日朝、三上卓・古賀不二人・黒岩勇の3人が、小菅刑務所から仮釈放された。
 38年2月には、中村義雄・山岸宏・村山格之の3人も出所しており、五・一五事件の元軍人受刑者はすべて釈放された。・・・
 霞が関の海軍省を訪れた一行は、そこで山本五十六海軍次官(中将)に出所の挨拶をした。
 「長い間、御苦労であった。落ちついたら、海外にでも行って活躍されんことを望む」と山本次官は三人を労い、「当面の小遣いだ」といって一人あたり1000円(現在の約200万~300万円程度)の金を渡した。
 すでに日中戦争が始まっており、朝鮮や満州での日本人の活動はますます盛んで、大陸に渡るつもりでいた古賀も山本の言葉に「大いに意を強くした」。・・・
 翌日、一行は風見章<(注119)>(内閣書記官長)を訪ねた。

 (注119)「1905年(明治38)早稲田大学入学、杉浦重剛の称好塾へ入る。1913年(大正2)大阪朝日へ入社。国際通信、信濃毎日と記者生活を送る。1928年(昭和3)第1回普通選挙に立候補するが落選。1930年に初当選、民政党に所属。1932年国民同盟に参加、1936年脱退し無所属となる。」
https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E7%AB%A0-44146
 杉浦重剛<は、>・・・雑誌「日本人」の発刊に協力し、日本主義を唱導。次いで国学院学監、東亜同文書院長などを経て大正三年(一九一四)東宮御学問所御用掛となり、倫理の御進講を担当。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E9%87%8D%E5%89%9B-18544
 「風見と米内光政とはとても親しい間柄でさかんに行き来や文通をしていた。風見が米内のもとへ出向くといつも山本五十六がいて、三人で策を練っていた。
 長男の風見博太郎によると、風見は近衛文麿、山本五十六、米内光政と数多くの手紙のやり取りをしており、終戦後すぐにすべてを焼却した。・・・
 ゾルゲ事件の首謀者の一人として死刑に処された・・・尾崎秀実<は>・・・風見の親友でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E8%A6%8B%E7%AB%A0

 風見はかつて森恪が近衛文麿に推挙した茨城県選出の代議士で、事件とも縁がある。
 「少ないが、当座の小遣いに」と言って、風見も3人に1000円ずつを手渡した。・・・

⇒当時は第一次近衛内閣であり、廣田弘毅外相、末次信正内相、杉山元陸相、米内光政海相、木戸幸一文相兼厚生相、という、ここに並べた中では、米内以外は強硬な秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者であり・・しかも、末次以外は杉山構想が開示されていたと私は見ています・・、杉山の主導下、彼らがよってたかって、内閣として、三上らに「小遣い」を内閣機密費から支弁することを決め、米内を説得して、海軍としても、海軍次官から元海軍士官たる三上らに「小遣い」を支弁するよう説得したのではないでしょうか。
 (なにせ、私見では、三上らに五・一五事件をやらせたのは杉山元なのですからね。)(太田)

五・一五事件などの関係者が大陸に多く集まったのは、偶然ではないだろう。
 陸海軍当局は事件によって起きた事態を最大限に利用しつつも、事件の「元受刑者」たちは内地から離し、海外で活動させるとの暗黙の了解があったようである。

⇒これも、杉山元の意向を受けたものでしょう。(太田)

 ところで五・一五事件元受刑者のなかで、内地にとどまって青年の育成を志、時に政治にも密に関与した人物もいた。
 三上卓である。・・・
 三上は、東亜経済調査局<(注120)>の附属研究所に関わっている。

 (注120)「東亜経済調査局は、後藤新平の構想に基づき、植民地研究の満鉄調査部、歴史研究の満州朝鮮歴史地理調査部に対し、世界経済の情報収集と分析を担当する機関として・・・1908年に・・・東京<支>社に設立され<、>・・・当初は世界経済の調査分析を担当していたが、1920年代以降大川周明によって主宰されるようになると、次第に東南アジア地域の調査研究に活動の重心を移した。1929年から財団法人として満鉄から独立、大川を理事長とし・・・1938年<には、>南方アジアの地域で働く人材の育成を目的とした「付属研究所・・・(瑞光寮)・・・」を設立、語学・一般教養・日本精神を講じ敗戦までに6期生を送りだした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E7%B5%8C%E6%B8%88%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%B1%80 

 1938年5月に創設された附属研究所は瑞光寮、別名大川塾とも呼ばれた。
 五・一五事件に連座した大川周明が1937年10月に仮出所したのち、南方の調査員を育成するために創られたのである。

⇒大川の収監中、東亜経済調査局の理事長ポストはどうなっていたのでしょうね。
 いずれにせよ、大川が杉山の片腕として、社会教育研究会、次いで、東亜経済調査局、と、八面六臂の活躍を続けたことが分かります。(太田)

 初代の寮長は、山岸宏(元海軍中尉、敬明と改名)であり、副寮長は菅勤(元士官候補生)であった。
 三上が呼ばれたのも、事件の関係者つながりであろう。

⇒これも、全ては杉山元/大川周明の差し金だったはずです。(太田)

 ところで、三上は同寮で青年教育を実践するかたわらで、この頃に国民的人気を持つ政治家・近衛文麿との接触を繰り返している。
 出獄した後も三上は、「昭和維新」–ここでは一君万民の平等的な社会をつくり、国民の一人ひとりにその志を遂げさせること、としておく–の実現を諦めてはいなかった。
 三上の動きは、1940年に発足する大政翼賛会、そして新体制運動と深く関わっていた。」(225~226、228~229)

(続く)