太田述正コラム#2720(2008.8.10)
<皆さんとディスカッション(続x217)>
<ライサ>
–一般的に言う学力とは何か–
≫「・・・大学生の学力は年々下がっているにもかかわらず、高校卒業生の学力は下がっていません・・・」≪(コラム#2718。衆愚)
私は教育界にいませんので部外者かも知れませんが、教えていただければありがたいです。
高校卒業と大学入学は、一般的には時間の延長線上に連続していると思うのですが、何故卒業・入学の時間的接点を越えると、下がっていない者が下がってしまうのでしょうか。お示しの本を読むべきかも知れませんが、その前に易しく教えていただけると嬉しいです。
私の個人的思いですが、この場合、「学力とは何か」を有る程度決めてからでないと単純に比較は出来ないような気がするのですが。
通常、学力といった場合、大学などのような所で学ぶ、有る程度の専門的知識を要するような物は指さずに、工業・商業・実業高校等で教える専門的知識を除いて、いわゆる一般的基礎的なこと(まー、極端に言えば保育園・幼稚園から小学・中学・高等学校までの)を学力と言うのではと思っていました。
もしそうだとすれば、「・・・大学生の学力は年々下がっているにもかかわらず、高校卒業生の学力は下がっていません・・・」は不思議な気がしてならないものですから。
<太田>
ライサさんの冒頭の疑問について。
(短大を除く)大学ほどではありませんが、高校についても進学率が上昇してきているので、高校時代の学力を中学校の時代の学力で置き換えて考えてみましょう。
まず、同世代の人数が倍以上あった戦後ベビーブーム時代、すなわち私の大学入学時(1967年)に比べて、中学生の平均IQ的な平均的学力が低下していない可能性は一概に否定できません。
他方、単純に中学校の時の学力上位者が大学に進学しているとすると、現在の大学進学率は50%程度に達しており、私の大学入学時には、同世代の人数が倍以上で、しかも大学進学率は13~14%に過ぎなかったのですから、大学生の平均的学力の低下には著しいものがあってしかるべきでしょう。
(以上、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%85%A8%E5%85%A5%E6%99%82%E4%BB%A3、
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/001/03090201/003/002.pdf
を参照した。)
こう考えれば、神永説は成り立ちうるのです。
問題は、中学生(高校生)の平均的学力が低下しているのか否かなのです。
<消印所沢>
当方のコミュニティ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=342133
のほうで,森本敏氏のことが,ちょっと話題に上りました.
貴兄は確か、テレビ番組などでご一緒に出演なされていたこともあると記憶しておりますが、貴兄から御覧になった森本氏の評価についてお聞かせ願えれば幸いです.
<太田>
森本氏については、コラム#2299、2381で言及しているほか、コラム#2518、2592で根底的な批判を行っています。
ご一読いただければ幸いです。
<ys>
「朋あり、遠方より来たれり。うれしからずや」(コラム#2718。-大橋一弘)て「朋あり遠方より来る。亦楽しからずや」じゃーなかったっけ!
<太田>
私が弁護する必要はないのだけれど、
http://www.shintoukai.com/chinese_class9.htm
でも、「友有り遠方より来たれり、また楽しからずや」と「訳」してるように、「来たれり」でも間違いではないのでは?
「また」の有無も本質的な問題ではないでしょう。
以下、蛇足です。
「朋<とは>考え方がお互いに照し合うように、よく見え通ずる友人ということです。多くの友人があっても、趣味が一致しているとか、おなじ志で一筋に生きている人と掛合うチャンスは稀であり、折角出合いがあっても、いろいろの事情で、遠隔の地に住まなければならないことも少なくありません。そのような遠い場所から訪ねて来た親友と久しぶりに近況を報告し合ったり、意見を交換したりするのは、人生の大きな楽しみであると同時に、人生そのものを豊かなものにします。」(
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo38.htm
)。
また、Livedoor Wiki の「ことわざもじり」によれば、これは「インターネットで知り合った萌え友達とオフ会やコミケ会場などで会う楽しさをいうことば。」だそうです(
http://wiki.livedoor.jp/rreuentahl/d/%CA%FE%A4%A2%A4%EA%B1%F3%CA%FD%A4%E8%A4%EA%CD%E8%A4%EB
)。
最近、私自身、この言葉を噛みしめる機会が多いのですが、まことに幸せなことだと思っています。
そうであれば、北京五輪開会式での論語のこのくだりの引用は、ちょっと牽強付会ぎみではないでしょうか。
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太田述正コラム#2720(2008.8.10)
<グルジアで戦争勃発(その2)>
→非公開
皆さんとディスカッション(続x217)
- 公開日:
太田様直々に恐縮です。
でも、子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎
>「来たれり」でも間違いではないのでは? 「また」の有無も本質的な問題ではないでしょう。
それを言ったのではなく、「うれしからずや」 ではなくて 「楽しからずや」 ではなかったでしょうかと言っただけです。
「楽しい」と「嬉しい」は意味が同じとはいえないでしょう。
別段問題にしているわけではありませんが。一応気になったので。