太田述正コラム#13434(2023.4.20)
<小山俊樹『五・一五事件–海軍青年将校たちの「昭和維新」』を読む(その40)>(2023.7.16公開)
「1943年10月21日の全国一斉検挙は、これらの反東条の動向を圧殺しようとするものであった。
東方同志会・勤王まことむすび・大日本勤王同志会などの民間右派から、百数十名を超える大量の検挙者が出た(皇道翼賛青年連盟の構成員もこの数に含まれる)。
東条の狙いは、中野正剛<(注126)>であった。
(注126)「<旧福岡藩士の子。早大政経卒。>・・・1940年大政翼賛会常任総務となったが、同会に失望して翌1941年辞任。戦時刑事特別法改正を契機として東条英機首相と激しく対立し、『朝日新聞』1943年元旦号に「戦時宰相論」を寄稿して東条を激怒させた。同年10月21日、直接行動で倒閣を図ったとされた東方同志会事件で<勾留>され、25日身柄を警視庁から憲兵隊に移されたが、小林健治裁判官が勾留を却下したため26日釈放された。しかしその深夜、日本刀で切腹自殺を遂げた。自殺の原因はいまも謎に包まれている。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B-17286
「1943年10月21日に東條の意による警視庁特高部によって中野は身柄拘束される。治安維持法違反や戦時法違反で<逮捕するには>は証拠不十分のため、行政検束という形を取った。・・・
行政検束は形式上はすぐに釈放してまたすぐに拘束するという手法で事実上の長期身柄拘束が可能な仕組みであったが、相手が国会議員であっため、行政検束で長期間身柄を拘束することは国会の反発を招きかねなかった。さらに大日本帝国憲法第53条には「両議院の議員は現行犯罪又は内乱外患に関する罪を除く外会期中その院の許諾なくして逮捕せらるることなし」と規定されており、議会開会が10月26日に迫っていた。
10月24日に東條に呼び出されて中野の起訴を指示された検事総長・松阪広政は、中野の言動は大日本帝国憲法第29条により法に触れない言論の自由の範囲内の収まっているとして「証拠不十分でこんな証拠ではとても起訴はできない。・・・」と東條に反論し<た。>[出典無効]・・・中野を議会出席停止させるよう東條に呼び出された国務大臣の大麻唯男(東條のイエスマンとして議会統制をおこなっていた)も「憲法上の立法府の独立を侵害しかねないのでできません」と反論される[出典無効]。東條は証拠不十分とする松阪の一言をとらえて「新しい証拠が出てきて、中野が自白したらどうする」と食い下がり、松阪は議会開会の1日前である10月25日正午までの取調べという条件をつけた。東京憲兵隊の取調べに対して、中野は「自宅で身内の東方同志会2人にガダルカナルの敗戦は陸海軍の作戦不一致の結果だと話した」と自白する。中野は10月25日に釈放された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%AD%A3%E5%89%9B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒小林健治裁判官のこの時の判断がいかなる経緯、根拠でなされたかが、下掲
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=539&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1
で詳らかにされていますが、仮に、松阪広政(注127)検事総長や大麻唯男(注128)国務大臣の両挿話の信憑性にいささか疑問符がつくとしても、いわゆる中野正剛事件は、対英米戦の最中においてさえ、当時の日本における法の支配がいかに堅固なものであったかを思い知らされる事案ですね。(太田)
(注127)1884~1960年。一高、東大法。「検事となる。・・・思想検事として思想・言論を対象とした治安維持法適用に関わった。1941年(昭和16年)、検事総長となる。1943年(昭和18年)、東條英機の命により“反東條”で知られる中野正剛の強引な逮捕に協力したため、中野を自殺に追い込んだ者の一人ともいわれている(中野正剛事件)。1944年(昭和19年)、小磯内閣の司法大臣となり、1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣でも留任、戦時体制下の思想統制(ないし思想弾圧)を進めた。・・・
弟・政文が日中戦争で、また息子・廣次が沖縄戦で特攻隊として戦死している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%98%AA%E5%BA%83%E6%94%BF
(注128)1889~1957年。五高、東大法。「内務省に入省。・・・警察畑を歩<む。>・・・
1924年(大正13年)、・・・年政友本党から第15回衆議院議員総選挙に立候補し当選。以後当選10回。立憲民政党に合流後、司法・文部各参与官、党筆頭総務を歴任し、1934年(昭和9年)1月から1935年(昭和10年)1月までの間は民政党の幹事長を務めた。民政党では3代目総裁となった町田忠治に可愛がられたが、1940年(昭和15年)の政党解消に対しては町田が民政党の解党に最後まで抵抗したのに対し、大麻は裏で軍部と手を握って新体制運動に民政党を合流させた。このことから政界の寝業師の異名が大麻に付けられた。
政党解消により大政翼賛会が発足すると、議会局議事部長に就任し、同議会局長の前田米蔵を補佐した。また院内では翼賛議員同盟に所属し、1942年(昭和17年)翼賛政治体制協議会委員となり、翼賛選挙の推薦候補選考に関わる。自らも翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選。同年、翼賛政治会常任顧問に就任。翼賛政治体制協議会の活動から翼賛政治会の設立に至るまで中心的な役割を果たした。1943年(昭和18年)には東條内閣の国務大臣として初入閣を果たす。「東條の茶坊主」と呼ばれ、翼賛体制の枢要を担ってきた親軍派政治家としてその名が知られるようになった。しかし、1943年10月の中野正剛事件では身柄拘束等あらゆる手段で中野正剛の議会出席停止を求める東條に対して、「憲法上の立法府の独立を侵害しかねないのでできません」と反論した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E5%94%AF%E7%94%B7
現役議員である中野を議会中に拘留したことには批判が強かったが、中野は警視庁から憲兵隊に身柄を移され、徹底して取調べを受けた。
10月25日に中野の釈放が決まったが、翌26日深夜、中野は自宅で割腹自殺する。・・・」(239)
(続く)