太田述正コラム#13444(2023.4.25)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その3)>(2023.7.21公開)
「・・・<なお、>盧溝橋事件<は、>・・・共産党が日本軍と蒋介石軍との戦争を起こさせようとした謀略であるとの説も強いが、このような事変発生直後に声明を出したことがその<説>の根拠の一つともされている。・・・
⇒杉山元らは、さぞかし、毛沢東の奴、はしゃぎやがって、と舌打ちをしたことでしょうね。(太田)
蒋介石は、・・・廬山で・・・著名な「最後の関頭演説」<(注4)>を行った。・・・
(注4)=廬山談話(1937.7.17)
https://marc73.hatenadiary.jp/entry/20140717/1405786556
7月28日、日本軍は北平に進撃を開始したが、北平城内から中国兵は逃亡し、日本軍は容易に北平を占領し、天津も占領した。
翌29日には、通州(※現北京市通州区)で、中国の保安隊が日本の居留民に対して言語を絶した暴行陵虐を加えた通州事件<(注5)>が発生した。・・・
(注5)日本の傀儡政府たる「冀東防共自治政府麾下の保安隊(中国人部隊)らが、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃・殺害した事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒「通州<は>・・・現在の北京市通州区」(上掲)であることに今頃気付き、いささか驚きました。
通州は北京からかなりの距離があると思いこんでいたからです。
もっとも、現在の北京市の「面積は日本の四国に相当する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E5%B8%82
というのですから、驚いてはいけないのでしょうが・・。
この通州事件が日本人兵士等の間に引き起こした支那人に対する憤激を、杉山元らは、柳川平助を使って南京事件を引き起こす(コラム#省略)のに「活用」した、と、私は考えています。(太田)
盧溝橋事件勃発直後から、繊維産業や海運業を中心とする産業界には対中強硬論・対英強硬論が強くあった。
例えば、鐘紡社長の津田信吾<(注6)>は『支那に対する国策の根本は彼に向って強力なる圧力を加えることにあるのだから今回の事変はその絶好の機会である、その意味からわが軍は大部隊を現地に集結し、速戦即決をもって支那を徹底的に膺懲すべきである』と述べていた<。>・・・
(注6)1881~1948年。「岡崎藩士・西山芳六の四男<。>・・・2年浪人したのち慶應義塾大学予科に入学。同大学卒業後、鐘淵紡績に工員として入社。・・・ A級戦犯として逮捕される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%90%BE
「昭和初期のインド綿花不買運動で知られる。・・・
大日本紡績連合会会長<も>つとめた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%90%BE-1092159
「<岡崎藩領の>矢作川沿いの農村で綿作が盛んに行われ、三河木綿が生産されるようになっ<てい>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E8%97%A9
「<幕末維新期の藩主の>本多忠民<は、>・・・1857年・・・に京都所司代に転任し、朝廷対策、特に条約締結問題で朝幕間を奔走した。・・・1860年・・・より2年ほど老中を務める。・・・1864年・・・に再任の台命が下った際は一旦は固辞しているが、結局就任し・・・老中首座を務め・・・た。戊辰戦争の際は岡崎藩を恭順に統一した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E6%B0%91
⇒津田の「国策は」発言は、政治的バランス感覚の優れた旧岡崎藩出身者で慶應義塾で島津斉彬コンセンサス中の「支那を辱めよ」(コラム#省略)を知る機会があったからこそだ、という気がしないでもありません。(太田)
米内海相は、盧溝橋事件発生当時は不拡大方針であり、杉山陸相と激しい応酬をしていた。
しかし、8月9日、上海郊外で海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫中尉と斎藤興蔵水平が中国軍に殺害される大山事件が発生し、現地の海軍や居留民の怒りを沸騰させた。・・・
⇒大山事件の発生理由にはいまだに定説がありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
が、第一次上海事変は、真偽はともあれ、きっかけとなった日本人僧侶襲撃事件について田中隆吉が陸軍の謀略だったと語っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%83%A7%E4%BE%B6%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ところ、大山事件を契機として生起したこの大山事件については全く陸軍の謀略説が出ていないのはむしろ不思議です。
私は、これも、杉山元らと示し合わせたところの、中国共産党による謀略だった可能性が大だと見るに至っています。(太田)
もともと華中や華南に関心が薄かった陸軍は上海派兵には消極姿勢だった<が、>・・・13日の閣議で陸軍の上海派遣が正式に決定された。
米内は・・・派遣に伴う財政問題を持ち出した賀屋蔵相を怒鳴りつけたという。・・・
当時、<外務省東亜局長の>石射猪太郎は、日記に「海軍はだんだん狼になりつつある」と書いた・・・。」(40~41、44~45、56~57)
⇒米内光政は、帝国海軍の組織エゴの塊のような人物であって、だからこそ、杉山元らが、日支戦争を引き起こし拡大させようとした時期に、近衛をして米内を海相に起用させ、近衛を利用して海軍を日支戦争に引きずり込んだ、というのが私の見方です。(太田)
(続く)