太田述正コラム#13446(2023.4.26)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その4)>(2023.7.22公開)

 「・・・11月15日、柳川平助<(注7)>中将率いる第10軍は独断で南京進撃を開始し、松井司令官もこれに同調して軍中央を突き上げた。・・・

 (注7)「1900.11.21陸軍士官学校卒業(12期)。同期に杉山元(後に元帥・・・)、畑俊六(後に元帥)、小磯国昭(後に大将・首相)、・・・
 ’12 陸軍大学校卒業(24期・恩賜)。同期に南京攻略を共にし戦後南京事件の責任を問われ処刑された谷寿夫(後に中将・・・)がいる。」
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/Y/yanagawa_he.html
 「第10軍司令官 柳川平助中将・・・熊本第6師団長 谷寿夫中将」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%AF%BF%E5%A4%AB
 「1920年8月19日参謀本部。イギリス、フランスにて、ベルサイユ講和条約交渉の日本代表団の外交武官として派遣。・・・
 1925年5月1日に参謀本部演習課長。この際には、当時の部隊の旅先旅館にて、部下らが羽目を外す中、阿南惟幾は寛容なカドが立たない対応をしたのに対して、カトリックの影響の強かった長崎出身の為か、派手な部下を叱責したと対比される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%8A%A9
 「1943年ごろのこと、柳川は・・・市村清・・・に・・・“お釈迦様になぜ何百億もの人たちが心を捧げてきたのか。それは私利私欲を捨てて、誰もが幸福になるようにと悲願を持たれたからだ。すなわち、大きな人類愛の上に立たれたからこそ、人々の心をつかんだのだ。事業家も衆生済度に近い気持ちで大衆のためを目指さなければ、真の繁栄はあり得ない”<と諭した。>」
https://www.san-ai-kai.jp/ichimura/people/yanagawa.html

 柳川平助は、本来日中戦争反対の皇道派の重鎮であり、二・二六事件後、予備役となっていたが、極めて勇敢で優れた作戦指導力により、召集されて杭州湾上陸作戦から上海、南京への攻略に貢献した。

⇒柳川=皇道派の重鎮、を裏付ける説明や典拠を私は眼にしたことがありません。(太田)

 しかし、統制派から疎まれて、1938年3月召集解除された。
 近衛文麿は、柳川への期待が大きく、第二次、第三次内閣で、柳川を司法大臣、国務大臣に起用した。」(60)

⇒ですから、柳川の(予備役編入もそうですが、)召集解除も皇道派云々とは無関係であり、二回目の近衛内閣の時に、ヴェルサイユ講和条約交渉時・・ウィキペディアの記述は年を1年間違えている?・・以来交流があったと思われる近衛に大臣として起用する考えがあることが杉山元らに知られていたからでしょう。
 さて、南京攻略戦後の南京事件(捕虜大量殺害と狭義の南京事件)について、(これまで単純な事実誤認をしていたこともあり、)この際、改説しておきます。
 まず、陸軍次官が、陸士同期の三人の間で、杉山→小磯→柳川、と、引き継がれたことは、役所的感覚からすると異常であり、これは、杉山構想を、代々の次官が「所管」する慣例を確立するために、杉山が(杉山構想の一環として)お膳立てしたものだと私は見ています。
 その上で、南京攻略戦を「独断専行」で行うとともに、その途上、終了後において南京事件を意図的に引き起こすよう、盧溝橋事件/第二次上海事変当時陸相であった杉山が二・二六事件後、予備役に編入されていた柳川を召集し、上海事変のために編成された第10軍の司令官に就け、その際に、南京事件惹起を依頼し、柳川は、隷下の陸大同期の谷寿夫第6師団長にその実行を命じた、とも。
 さて、ここまでは、従来からの私の見解に合致した話なのですが、この第10軍と手を携えて南京攻略戦を行った上海派遣軍隷下の第16師団長の中島今朝吾もまた、南京事件の実行者であったことに今頃気付きました。↓
 
 「中島今朝吾<は、>・・・1936年・・・3月7日、中将に昇進する. 3月23日には憲兵司令官を命じられる。以後、皇道派の放逐、粛軍に加担する。憲兵司令官就任、これには同郷であり、陸軍幼年学校、陸軍士官学校の同期であり、親友である、新陸軍次官梅津美治郎中将の引き立てがあった。・・・
 1937年(昭和12年)1月、広田弘毅内閣が総辞職を行った。それにより、次期首班が宇垣一成大将となることもほぼ明白となった。・・・
 石原は自身の属する統制派、参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から憲兵司令官であった今朝吾に出させた。・・・
 今朝吾は宇垣の組閣参謀であった松井石根大将や衆議院議員の船田中に直接電話をして宇垣への加担をやめるように言っている。・・・
 <1937年>8月・・・第16師団長・・・とな<り、>・・・11月に・・・中支那方面軍(司令官松井石根大将)麾下上海派遣軍(司令官松井石根大将兼務)に隷属する。上記の宇垣大将組閣の一件の遺恨もあり、両者の仲は大変悪かった。以後、南京攻略戦に参加する. 12月13日、南京占領。・・・
 日記には、第16師団長として南京攻略戦に参加した時に、本攻略戦において捕虜を取らない方針であること、隷下の部隊がそれぞれ捕虜を千や万を超える単位で処理したものがあること、彼自身も七、八千人の捕虜をまとめて「片付くる」予定だが、それには「大なる壕を要し中々見当らず」代案を考えていること・・・等の記述がある。・・・
 南京での掠奪がエスカレートしていたが、師団長であった中島自身も積極的かつ幕僚らを使って組織的に実行、蒋介石の邸宅などにあった美術品等の宝物類を略奪、運び出した。松井大将は南京から運び出される荷物の中身に注意するよう上海から指示を出したようではあるが、この指示がどの程度実行されたか不明である。後に中島は自ら日記に、松井に注意されたものの、しらばくれたと書いている。戦後に田中隆吉が国際検事局の尋問に証言したところによれば、本人が満州第4軍司令官であった1938年末近く、これらの財物を師団偕行社に送ったことが発覚、スキャンダルとなり、本人の司令官解任(さらに、その後暫くしての予備役編入)の原因となっている。・・・
 また、自分の宿舎にした蒋介石の元官舎が既に略奪などで荒れ果てていたので現地一流ホテルの家具を持ち込み、それに対する松井大将の注意には「国を取り人命を取るのに家具位を師団が持ち帰る位が何かあらん」と突っぱねたと日記に記している。
 翌1938年(昭和13年)1月、今朝吾とは同郷で仲が良かった陸軍省人事局長阿南惟幾少将が南京に視察にやってきた。そこで阿南は松井司令官から今朝吾の統率を非難する話を聞かされている。また、阿南はこの年の12月22日に行われた陸軍省局長会報に出席し、「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして、言語に絶するものあり」とメモに記している。・・・
 1938年暮れごろ、南京攻略直後に略奪していた蒋介石邸の美術品類を日本に持ちこもうとして発覚。陸軍で大きな問題となる。翌1月兵務課長(憲兵の元締め)となった田中隆吉は、彼によれば南京での残虐事件について中島を含めた責任者を軍法会議にかけることを主張したものの、反対が強く、容認されなかったという。1939年(昭和14年)8月1日、参謀本部付。対支戦での功績から天皇から恩賜品や陪席の栄を賜る。9月28日、待命。9月30日、ついに予備役に編入される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E4%BB%8A%E6%9C%9D%E5%90%BE

 上掲から、宇垣首相就任阻止に関しては、杉山教育総監(当時)→石原莞爾→中島、のラインで指示がなされたのに対し、南京事件の実行に関しては、上海事変/南京攻略戦の際には、杉山陸相→梅津次官→中島、のラインで指示がなされた、と私は見るに至っている次第です。
 (田中隆吉に対してはもちろんのこと、阿南に対しても、彼が1939年10月に次官になる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
までは、杉山構想が明かされていなかったことが分かりますね。)
 これは、中島が、梅津によって憲兵司令官に就けられたらしいこと、かつまた、中島が、「1938年・・・6月24日、<当時の上官であった>第2軍司令官東久邇宮稔彦王中将とその上官である北支那方面軍司令官寺内寿一大将を通じて、今朝吾は大本営に和平・・「戈を収めて一路ただちに皇道国家の建設に進むべきだ」と主張・・を訴える意見具申の建白書を提出する・・・と同時に因縁の相手である宇垣一成外務大臣にも従軍僧村上独潭を通じて建白書を提出<を試みたり、>・・・7月上旬には支那事変への疑問と和平を綴った「意見具申捕遺」をしたためたが、結局未提出に終わ<ったり、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E4%BB%8A%E6%9C%9D%E5%90%BE 前掲
ということもあって、南京事件、とりわけ、狭義のそれを、(指示された場合はやり過ぎてしまっても不思議ではないけれど、)自発的に起こすような人物であるとは考えにくいこと、に照らし・・。(太田)

(続く)