太田述正コラム#13448(2023.4.27)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その5)>(2023.7.23公開)
「・・・1938年4月7日、大本営は徐州作戦<(注8)>の実施を下令した。
(注8)徐州会戦。「1938年(昭和13年)4月7日から6月7日まで、江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国軍(国民革命軍)による戦い。日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E5%B7%9E%E4%BC%9A%E6%88%A6
しかし、徐州方面に向けて南下する日本軍と中国軍が激突した台児荘での戦い<(注9)>では中国軍の戦闘に対し日本軍は多数の死傷者を出して苦戦した。
(注9)だいじそうのたたかい。「1938年3月から4月7日までの間、山東省最南部の台児荘(台児庄とも)付近で行われた戦闘である。台児荘の攻略を企図した日本軍部隊が、中国軍の大部隊に包囲されて撤退、徐州作戦の引き金となった。中国側が「抗戦以来の大勝利」を宣伝したことでも知られる。・・・
稲田正純中佐の戦後の回想によれば「台児庄からの後退は敗退ではなく、いずれ下がることは大本営との初めからの約束」であるとしている(支隊に同地占領の任務は含まれていなかった)。局部的とはいえ日本軍の後退は盧溝橋事件以来初めてのもので、損害が比較的大きかったことも事実である。日本軍の損害は、第5師団の戦死1,281、戦傷5,478、第10師団の戦死1,088、戦傷4,137で、合計戦死2,369、戦傷9,615、総計11,984名であった。また、瀬谷支隊が独断で撤退したことが問題となり、瀬谷啓少将は後に予備役編入となった。誤断により坂本支隊に転進を命じた板垣中将や、瀬谷支隊の実態を知らず転進中止を命じた磯谷中将らの責任がどうなったのかは不明である。」
北支那方面軍(寺内寿一)-第2軍(西尾寿造)-第5師団(板垣征四郎)-坂本支隊(坂本順)
-第10師団(磯谷廉介) -瀬谷支隊(瀬谷啓)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E5%85%90%E8%8D%98%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
また、日本軍は5月19日徐州を占領したが、中国軍を包囲して追い込み殲滅しようとする作戦は、中国軍が後退逃走を繰り返したため失敗した。・・・
第<1>軍香月清<(注9)>司令官は、5月28日更迭され(後任は梅津美治郎)、失意のうちに帰国した。」(61~62)
(注9)かつききよし(1881~1950年)。幼年学校、陸士14期、陸大24期。「[陸軍省軍務局兵務課長,陸大幹事などを歴任し,]第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。
田代前支那駐屯軍司令官の方針を踏襲し、参謀本部に従って不拡大方針を採ったものの、方面軍幹部の積極策と対立、結果的に河北全体に戦線を拡大した。第1軍司令官解任後は参謀本部付を経て、1938年(昭和13年)7月29日には予備役に編入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%9C%88%E6%B8%85%E5%8F%B8
https://kotobank.jp/word/%E9%A6%99%E6%9C%88%E6%B8%85%E5%8F%B8-1065588 ([]内)
⇒第1軍は、「支那事変(日中戦争)勃発後の1937年(昭和12年)8月31日に、天津に駐屯していた支那駐屯軍から改編され、同時に新設された北支那方面軍の戦闘序列に入った。主に華北方面を作戦地域とし、終戦時は太原に在った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
のに対し、第2軍は、「1937年・・・8月31日に支那駐屯軍が第1軍に改編された際、北支那方面軍ともに新設され北支那方面軍の戦闘序列に入った。主に華北方面を作戦地域としていたが、徐州会戦の後華中に転用、1938年(昭和13年)7月4日大陸命弟133号により中支那派遣軍と第2軍の戦闘序列が改定され、武漢作戦に参戦した。・・・太平洋戦争勃発後の1942年(昭和17年)7月4日に編成され、第1方面軍編組 に入った。主に満州方面を作戦地域としたが、1943年10月30日、第2方面軍の戦闘序列に入り、西部ニューギニアに転用された。1945年2月28日の第19軍司令部復員に伴い、同軍の作戦地域の大部分が追加され、4月に司令部をセラム島に移転した。6月13日の第2方面軍司令部復員に伴い同軍の全作戦地域を継承し、司令部をセレベス島に移転した。6月30日、南方軍の直属となり終戦を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
という変遷を辿りますが、杉山らは、第1軍には終戦まで、延安を本拠とする共産党軍と対峙しつつ「共存」する役割を負わせることにしていたため、徐州作戦が終わった段階で、(杉山構想を次官時代に明かされていた)梅津に司令官を交替させる必要があったために香月は(更迭に値しないのに)更迭された、というのが私の見解です。
このことは、梅津が翌1939年9月に関東軍司令官に就任した際、第1軍司令官の後任に、陸士を出たばかりに配属された連隊の先任将校が自分であったことから人となりを熟知していたであろうところの、篠塚義男(注10)を持ってこさせたのも、共産党との関係を言い含めても絶対に他言をしないと確信していたからである、とも。
(注10)1884~1945年。「熊本地方幼年学校・中央幼年学校・陸軍士官学校<(363名)>をいずれも全て首席で卒業<。>・・・補歩兵第1聯隊附・・・連隊長宇都宮太郎大佐、先任将校梅津美治郎(当時は是永姓)<。>・・・陸軍大学校第23期(恩賜,5番/52名)・・・1939年(昭和14年)9月7日補第1軍司令官<、>1941年(昭和16年)6月20日補軍事参議官兼陸軍士官学校長<、>1942・・・6月2日予備役<。>・・・終戦後に自決した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%A1%9A%E7%BE%A9%E7%94%B7
(篠塚の自殺は、杉山構想の一端を明かされていたから、と、考えないと、その経歴に照らし、いささか不可解だろう。)(太田)
(続く)