太田述正コラム#2677(2008.7.19)
<シークレット・サンシャイン鑑賞記(その1)>(2008.8.26公開)
1 始めに
東京の六本木シネマートで、水島氏ご推奨の「シークレット・サンシャイン」を鑑賞してきました。
韓国映画を見るのは初めてなのですが、正直、そのクオリティーの高さに圧倒されましたね。
見ている間中、緊張のし続けでした。
監督・脚本を担当したイ・チャンドン(Lee ChangDong。1954年~)(注)が何を言いたいのかだけでなく、水島氏がこの映画を見ると韓国人移民の受け入れが不可能なことが分かると言った(コラム#2571)のはどういうことなのか、についても、必死に考え続けたからです。
(注)最初は高校の国語教師。1983年に作家デビューし、韓国で様々な文学賞を受賞。1993年から映画界に進出。その後監督として、2002年の「オアシス」でヴェネティア国際映画祭で監督賞を受賞、ノ・ムヒョン政権下で文化観光部長官に就任。日本文化の開放等を行う。「シークレット・サンシャイン」ではカンヌ国際映画祭で主演したチョン・ドヨン(シネ役)に主演女優賞をもたらした。(「シークレット・サンシャイン」日本語パンフレット16頁。以下も、このパンフレットに拠った部分が少なくない。)
142分間の上映時間は、あっという間に過ぎました。
部屋が明るくなっても私はすぐには立ち上がれませんでした。
以上申し上げたことに加えて、身につまされることもあったからです。
2 イ・チャンドンは何を言いたいのか
(1)イ・チャンドンの言いたいこと
イ・チャンドンの言いたいことは、この映画のタイトルが示唆しています。
イは、「シークレット・サンシャイン」とは、映画の舞台となる密陽(ミリャン)という「特別なものが何もない典型的な地方都市<の名前の英訳>です。・・・この字<=町の漢字表記>を見ると何やら意味深で、象徴的で、詩的にも思えます。きっと何かがあるのだろうと現地に行ってみると、実際には何もない(笑)。その対比が実に面白く、私たちの人生に似ているような気がしたのです」と述べています(17頁)。
映画の冒頭、最初の会話が主役のシネと準主役のジョンチャンとの間で交わされます。
「ミリャンの意味を知っていますか?」
「意味? 考えたこともないね」
「秘密の密に、陽射しの陽。秘密の陽射しなんて素敵でしょう。」
私は、ここのところを、漢字表記を基本的に廃止してしまった韓国では、地名の本来の意味が失われている、ということだと受け止めました。
これは地名以外の、漢字起源のあらゆる韓国語について言えることではないでしょうか。
つまりここは、戦後の韓国がデラシネになってしまったというイ・チャンドンのメッセージであると私は受け止めました。(これはひょっとして深読み過ぎかもしれませが・・。)
では、デラシネになってしまった韓国人は、どこに心の拠り所を求めるのでしょうか。
「心の拠り所」とは「愛」と言い換えても良いかもしれません。
イ自身もそう定義しているかどうかは私には知るよしもありませんが、愛とは探し求めることを中止すること(コラム#2673(未公開))だというのに、シネはあくことなく愛を探し求め続けます。それに対し、ジョンチャンは、平凡な現実の中に愛を見出す男なのです。
シネは、愛を探し求める彷徨の中で、キリスト教の神の愛に出会います。
しかし、やがて神の愛の偽善性、不毛性に気づいたシネは、更なる彷徨の旅に出て行き、その挙げ句、遅ればせながら自分の傍らにジョンチャンがいることに気づくのです。
イ・チャンドンは、「シネから見るとつまらない平凡な現実の中に、愛の本質が隠れているのです。」と言っている(18頁)ので、ジョンチャンの愛の捉え方に軍配を挙げていることは明白です。
(2)私の見解
私に言わせれば、イ・チャンドンは間違っています。
デラシネとなった韓国人は、心の拠り所を、イデオロギー(マルクス主義)や宗教(とりわけキリスト教)に求めても、所与の現実に求めてもいけないのです。
心の拠り所は自分で積極的に探し求めるか自分で積極的に創り出さなければならないのです。
その場合の選択肢は二つあります。
アングロサクソン流の個人主義で行くのか、日本の人間主義で行くのかです。
戦前、日本人以上に日本帝国臣民になり切っていたと私が見ているところの韓国人には、日本の人間主義が良いのではないか、と個人的には思っています。
3 水島氏の問題提起
(1)水島氏の問題提起
水島氏は、私の理解するところ、韓国人はデラシネとは言えないのであって、韓国人のものの考え方は、個人主義とも人間主義とも相容れない、とりわけ人間主義とは全く相容れないところの、朝鮮半島独特の伝統的なものの考え方を引きずっている、と言いたいのだと思います。
なるほど、シネやジョンチャンの次のような行動は、アングロサクソン社会や日本社会ではまず見られない非違行為であるように思えます。
(続く)
シークレット・サンシャイン鑑賞記(その1)
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