太田述正コラム#13450(2023.4.28)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その6)>(2023.7.24公開)


[梅津より後の歴代第1軍司令官について]

一 歴代第1軍司令官

 (一)岩松義雄(1886~1958年)。幼年学校、陸士17期、陸大30期。「参謀本部支那課長、参謀本部付(南京駐在)などを経て、1934年3月、陸軍少将に進級する。・・・[第15師団長 1938年(昭和13年)7月15日 – 1940年(昭和15年)3月9日]・・・中部防衛司令官、1940年8月、中部軍司令官を経て、〔1941年6月<から>〕第1軍司令官として<支那>で活動した。1942年8月1日には軍事参議官となり、同年12月、予備役に編入され、新民会<(注11)>最高顧問〔、華北政務委員会最高顧問〕に就任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E9%9B%84
http://juntuanwang.com/general/11907 (〔〕内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC15%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D) ([]内)
 「第15師団<は、>・・・1938年(昭和13年)・・・8月  :上海に上陸。南京警備を担当。9月:武漢作戦に参加。・・・1940年(昭和15年)2月15日:郎渓溧陽作戦 参加。」(上掲)
 
 (注11)「満洲を去った<小澤征爾の父の>小澤開作は、北京で新たな活動を始める。再び・・・北支、つまり華北でも「満洲国協和会」のような組織をつくろうと考える。それが結実したのが「新民会」です。この会の創立式典は1937年(昭和12年)12月ですが、ここでも小澤開作さんは、中国の方々と組み、中国人の主体性と自主性を重んじ、中国古来の思想に立脚して、教化工作や厚生工作をしていく組織をつくっていこうとする。そして、中国共産党や国民党に対抗して、真の日中友好を確立するためには、中国の農民の生活を向上させるしかないと考えて、北支の農村に合作社、つまり一種の協同組合をつくっていこうとします。そのような活動をしていくのが「新民会」ですね。・・・
 <そして、>そこの総務部長になったのです。お相手の中心の方は、繆斌(みょうひん)さんとおっしゃる方で<した。>」
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3609

⇒岩松の中部軍司令官当時、中部軍は天皇直轄部隊だった
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%83%A8%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8 ←中部軍司令部)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%83%A8%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E7%B7%8F%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8
ので、当時の岩松の事実上の上司は杉山元参謀総長であったところ、第1軍司令官赴任の挨拶時等において、杉山から杉山構想の一部を開示された上で、第1軍司令官の前任者である梅津美治郎からその部分を含め、引継ぎを受けたと想像される。
 岩松は、予備役編入後の経歴から、終戦時、北京にいたのではないかと思われるところ、その豊富な国民党人脈を買われて、共産党から国民党人士との連絡調整の任に当たらされ、自決する時機を失したのではなかろうか。(太田)

 (二)吉本貞一(1887~1945年9月)。幼年学校、陸士20期、陸大28期(恩賜)。「日中戦争開戦で新設された第11軍参謀長として岡村寧次中将を補佐し武漢作戦を戦う。次いで中支那派遣軍参謀長として山田乙三大将を補佐した。その後、ノモンハン事件後の第2師団長に親補され、太平洋戦争開戦時は関東軍参謀長の職にあり、1942年(昭和17年)8月1日から第1軍司令官を勤めた。
 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)には第11方面軍司令官となり大将に進級、だが藤江恵輔大将に職を譲り第1総軍司令部付であった時に敗戦を迎え、9月14日に市ヶ谷台上で自決した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9C%AC%E8%B2%9E%E4%B8%80

⇒第1軍司令官補任時に関東軍参謀長であった吉本の上司は関東軍司令官の梅津美治郎であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E7%BE%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E
梅津から、杉山構想の件の一部を開示された上で赴任したに違いなかろう。(太田)

 (三)澄田●<(貝偏に来の旧字)>𧶛四郎(らいしろう。1890~1979年)。幼年学校、陸士24期、陸大33期(首席)。「1925年(大正14年)から3年間、フランス陸軍大学校で学んだ。フランス滞在中には、フランスに留学していた甘粕正彦とも親交があった。
 帰国後、陸大教官、参謀本部部員、兼軍令部参謀、フランス大使館付武官、陸大教官、参謀本部課長・・・などを歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。
 ・・・大本営参謀(仏印派遣団長)などを経て、・・・陸軍中将に進級。<1941>第年9月、第39師団長に親補され、宜昌の警備に当たる。1944年(昭和19年)11月、第1軍司令官に転じ、太原で敗戦を迎え、1949年(昭和24年)2月に復員した。
 なお、第1軍の将兵のうち2,600名は大陸に残留し、中国国民党系の閻錫山<(注12)>の軍隊に参加して、3年半以上にわたって中国内戦を戦うことになった<(注13)>が、この残留が澄田と閻錫山との密約に基づくものであり、澄田は部下将兵を「売って」帰国したのである、という説がある。

 (注12)えんしゃくざん(1883~1960年)。「1935年・・・4月に陸軍一級上将銜を授与され、12月には軍事委員会副委員長に任じられている。しかし、1936年・・・2月、陝西省から「東征」してきた紅軍(中国共産党)に晋綏軍は惨敗を喫する。これに危機感を覚えた閻錫山は反共から「連共抗日」路線への転換を表明して共産党と和解し、9月には犠牲救国同盟会を成立させた。
 1937年・・・、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、第2戦区司令長官兼山西省政府主席として日本軍に対峙する。閻錫山の地盤は、日本軍、国民党中央軍、共産党軍の進出で動揺した。1939年・・・には、勢力を増大させた共産党軍との間で衝突(晋西事件)も起きる。1941年・・・9月には日本の「対伯工作」を利用して現地日本軍と停戦協定を締結し、兵力を温存した。
 1946年・・・から始まった国共内戦では、山西軍に加え、残留した日本兵・・・の部隊(暫編独立第十総隊)を使い、中国人民解放軍と戦った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%8C%AB%E5%B1%B1
 (注13)中国山西省日本軍残留問題。「残留の発端は、中国共産党軍(中原野戦軍)と対決していた閻錫山が内戦の本格化を見越し、日本人らの大規模残留を望んだことにある。閻は復員列車を止めるなどの妨害を行い、1万人規模の軍主力の残留を要求した。そして、復員輸送を円滑に進めるための捨て石的存在として、軍の一部が残留せねばならないとされた。
 これに日本軍の一部(当時山西省を担当していた澄田●四郎中将麾下の支那派遣軍第一軍将兵59000人)が応じた。また、城野宏や河本大作ら現地の関係者が同調し、結果、当時3万人いた民間人のうち約1万もの人数が残留に応じた。紆余曲折の末、在留日本人および日本兵を合計した約2600人(うち軍出身の現役組は約半数を占める)が戦闘員(特務団)として現地に残され閻錫山の軍隊に編入、終戦後も4年間の内戦を戦うこととなった。
 4年間のうちに約1600名は日本へ内地帰還できたが、残り約1000人のうち約550名が戦死、残りは人民解放軍により長きにわたる俘虜生活を強いられた。
 この残留では、A級戦犯としての追訴を免れると同時に日本軍兵力の温存を望む澄田と、共産軍と戦うために国民党軍の戦力の増強を目論んだ閻との間で不明朗な合意が結ばれ、現役日本兵のうち残留を希望しない者も正規の軍命により残留を余儀なくされたと主張して、一部の元残留日本兵が軍人恩給の支給を求めるという形で訴訟を起こしている。
 しかし、日本政府は残留兵を「志願兵」とみなして「現地除隊扱い」とし、原則として恩給などを補償しないという姿勢である。2005年には本件で最高裁判所に上告したが敗訴している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E6%AE%8B%E7%95%99%E5%95%8F%E9%A1%8C

 支那派遣軍参謀として敗戦を迎えた宮崎舜市中佐(陸士40期・陸大51期恩賜)は、澄田による「残留命令書」を見たと証言している。・・・
 長男<は>澄田智(<大蔵次官、>日本銀行総裁)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E7%94%B0%E3%82%89%E3%81%84%E5%9B%9B%E9%83%8E

⇒中共と通じていたこともある閻錫山は、日本の第1軍の人民解放軍との「協力」を知っていて、バラすぞと澄田を脅迫し、日本の軍民の残留を飲ませ、澄田は、これら残留日本人の完全帰国まで見守らざるを得ず、自決する時機を失したのではなかろうか。
 なお、澄田の第1軍司令官補任の際の陸軍大臣は杉山元、参謀総長は梅津美治郎であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E7%BE%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E 前掲
ところ、恐らくは、梅津から、杉山構想の件の一部を開示された上で赴任したと思われる。(太田)

二 補足

 陸相辞任後の1938年(昭和13年)12月9日、杉山元は、梅津美治郎第1軍司令官の上司たる北支那方面軍司令官に転じており、梅津が離任し、篠塚が第1軍司令官に着任する1939年(昭和14年)9月7日の直後の12日に北支那方面軍司令官を辞任している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)

⇒篠塚の第1軍司令官着任の際、杉山は、梅津ともども、篠塚に対し、杉山構想の件の一部を開示するとともに、爾後、歴代の第1軍司令官に対し、同じ開示を行うとともに、本件に関しては、上司の北支那方面軍司令官に対しても秘匿するよう言い渡すつもりだ、と伝えた、と、私は想像している。
 なお、杉山元は自決したところ、梅津は自決こそしていないものの、「東京裁判の法廷では、広田弘毅や重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。判決は終身禁固刑が言い渡され、1949年(昭和24年)1月8日、服役中に直腸癌により病没した。・・・梅津は、生涯日記も手記も残さず、病床には、「幽窓無暦日」とだけ書いた紙片が残されていたのみだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E7%BE%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E 前掲

というのだから、(自分が不治の病に罹っているとの自覚の下、)廣田と同じく、逃げずに「殺される」姿勢を貫いたということなのだろう。(太田)

(続く)