太田述正コラム#2368-2(2008.2.16)
<日本論記事抄・後編(その1)>(2008.8.29公開)
 (「その2」より先に、後編(その1)以下を書くことにしました。変則的ながら、これらは非公開にします。)
4 日本文明論
 (1)ファイナンシャルタイムスの日本論
 英ファイナンシャルタイムスの東京特派員のピリング(David Pilling)が、赴任後5年にして日本論をテーマにした記事を書きました(
http://www.ft.com/cms/s/0/257b98aa-d93c-11dc-bd4d-0000779fd2ac.html
。2月16日アクセス)。
 まずは、彼の言わんとするところをかいつまんでご紹介しましょう。
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲。1850~1904年)は晩年の15年を日本で過ごしますが、亡くなる1年前に書き上げたJapan: An Attempt at Interpretationの中で、日本人の親友の「更に4~5年経って君が日本人が全く分からなくなった時、君は初めて日本人についてほんの少し分かるようになるだろう」という言葉をひいている。
 私が日本のユニークさについて真剣に考えるようになったのは、ケンブリッジ大学の人類学者のマクファーレン(Alan Macfarlane。コラム#519、1030、1397、1399、1400、1402、1403、1405、1476、1587、1589~1591。コラム中でマクファーレーンと記述した場合もあるので注意されたい)のJapan Through the Looking Glassを読んでからだ。
 彼によれば、日本は単に「些細なことで欧米や他の文明と異なるのではなく、極めて深いところで異なっていることから、われわれが用いるところの理解するための道具が役に立たない」のだ。
 イギリスの彼の自宅を訪問して話を聞いたときのことだ。
 彼は、15年間日本のことを考えてきてハーン同様分からなくなってしまったと告白した上で、「私は、日本について、最初のうち同じだなと思ったけれど、次第に違和感を覚えるようになった。日本は二つの異なった側面を持っているという点でユニークだ。表面的には近代的かつ合理的な経済、政治、法等々が存在するけれど、これらと完全に背馳するところの特殊な規範と宗教的信条が背後に存在するのだ。相撲や茶道から始まってビジネスにさえ至るところの、ほとんど生活の全ての分野にわたって、それ自体とは異なる何か、それ自体を超える何かを感じ取ることができる。」と語ったものだ。
 その後彼に電話で聞いたところによれば、孤立したガラパコス諸島においてめずらしい動物や植生が生じたように、日本は地理的かつ歴史的に孤立しているために独特の文化を築いたのだという。
 つまり、日本以外の近代的社会は精神的なものと日常的な世界を完全に分離したのに対し、日本ではこのような分離が生じなかったというのだ。相撲はスポーツであると同時に宗教でもあるし、庭園は自然であると同時に芸術でもある。寺院は信仰なき国における礼拝の場なのだし、日本では一党制の民主主義なる代物まで機能している。
 マクファーレンの本を読むと、同じ「分離の欠如(ack of partition)」はビジネスの世界でも見られるという。
 日本人は、欧米におけるように、経済を独自の法則に従って機能するものとして道徳的領域の外に位置づけるようなことはしないという。
 現在存続が問われているところのかの有名な系列システムの下、企業は互いに株式を持ち合い、市場の悪しき力から守られようとするし、大企業では、従業員は自分達の会社を家族のようにみなしていて、学校を卒業すると同時にその会社に就職し、引退するまでその会社に勤続する。社歌、社の独身寮、社の記念日の休日、めったやたらな超過勤務、そして社の飲み会がつきものだというのだ。
 東京に赴任する前、私はベネディクト(Ruth Benedict)の「菊と刀」を読んだ。
 この本で彼女は日本の文化は欧米の罪の文化と対置されるところの恥(義理、義務)の文化であるとしてのだが、その出出しで彼女は、「日本人は米国がこれまで戦った敵のうち最も異質(alien)だ」も、日本の特異性を記していた。
 日本人自身も自分達をユニークだと思っている。
 日本人は昔から日本人論が大好きだ。1980年代には、日本人論に基づいて経済大国となった日本の内在的優位が盛ん喧伝されたものだ。
 日本人論では、人種的均質性がしばしば強調されるが、これは地下鉄に乗って様々な顔つきの人々と遭遇するだけでインチキだと分かる。もっともらしいのは、日本人が協調的な稲作農民であって饒舌な狩猟・採集者ではないとか、自然に対するユニークな感性(sennsitivities)があるとか、言語に拠らざるコミュニケーションを行うとか、冷たい論理よりはカンと心を用いるとか、稀にみる芸術的センス(awareness)を持っているという主張だ。
(続く)