太田述正コラム#2370(2008.2.17)
<日本論記事抄・後編(その2)>(2008.8.30公開)
 もう一度マクファーレンの言うところに耳を傾けよう。
 日本人はホンネとタテマエを使い分けるところ、それは日本人が他人との関係性の中で自らの言動を律するからなのだが、同じことが日本の芸術、例えば俳句についてもあてはまる。
 俳句は、英語に直訳しても何ら感興を呼び起こさない。季語、日本の自然環境、日本語独特の擬音等に通じていないと良さが分からないのだ。
 日本における「分離の欠如」の原因だが、それは日本がヤスパース(Karl Jaspers)言うところの、あの世(聖)とこの世(俗)とを分離した「軸の時代(axial age)」を経験しなかったことから来ている。
 神道は、人間の言動の正邪を判定し、救済を求める観点から人間を規律するところのあの世、という哲学的観念を排斥している。
 性の隠蔽と顕示という「矛盾」もそうだ。
 売春はタテマエ上は1956年に禁止されたが、「水商売」は日本のあらゆる街に存在する。ポルノは8世紀以来はやっているが、それは料理、書道、剣術等同様、芸術の一種と考えられている。
 私自身は、特定の人々のユニークさを強調するこの種の主張に対して、為にする議論ではないか、とうさんくさい思いを抱き続けている。
 グァテマラやマダガスカルや英国がそれぞれ互いに異なっているように日本も異なっているというだけのことだと思っているのだ。
 日本と支那に詳しい英国人のブルマ(Ian Buruma)に聞いたところ、彼の意見はこうだ。
 
 欧米と日本を対置する日本人の議論に惑わされてはならない。日本を支那や韓国と比べれば、日本がそれほど特殊ではないことが分かる。
 日本人が日本を特殊だと思うようになったのは17世紀の水戸学以来にすぎない。日本は支那とは違って万世一系の皇室をいただいている、というのだ。
 そして、19世紀の中頃から欧米の列強とあいまみえるようになると、日本人はこれら諸国と日本を対置させるようになった。
 欧米列強と戦ってアヘン戦争等で敗れた支那が世界の中心であるわけはない、という観念がこれに拍車を掛けた。
 日本は特殊でも何でもなく、単にちょっと変わっている(bizarre)だけだ。
 礼儀正しく平和な社会であるのに性と暴力ばかりのマンガや映画があふれているという意味で・・。
 しかし、この点でも日本は支那や韓国と同じだ。東アジアはキリスト教やイスラム教世界とは違って原罪の観念を持たない。だから、性が罪深いという宗教的感覚がないのだ。ポルノが批判されるとすれば、それは宗教的理由からではなく社会的理由からだ。ポルノは、しばしば政治過程への影響力のない日本のインテリの不満の捌け口となってきたが、特段このことに深い文化的理由はない。
 日本と英国を行ったり来たりしている米国人学者のキンモス(Earl H. Kinmonth)にも話を聞いたが、彼の意見は次のとおりだ。
 
 英国の階級制度だって奇妙きてれつだ。もし英国人の肌の色が違っていて、日本語並みに習得するのがむつかしい言語を用いておれば、さぞかし米国人は英国人のことをちょっと変わっていると思うことだろう。
 外見的な違いに目を奪われるのではなく、背後の力学を見よ。そうすれば、どんな社会でも同じであることが分かる。
 韓国人と日本人は外見的には全く違う。韓国人は日本人より感情的で自己主張が激しい。韓国人は葬儀で号泣するけれど日本人は押し黙っている。だけどこれはアイルランド人とイギリス人の違いと同じだ。
 日本人特有の習慣が日本の特殊性という誤解を生み出している。
 それは日本人以外の人々が概念化しないような日常的なことを概念化する、という習慣だ。
 例えば、タテマエとホンネの違いなんて、あらゆる社会に存在するが、それを概念化したのは日本人だけだ。だからといって、タテマエとホンネの乖離が日本社会特有のものだ、ということにはならない。
 日本人が四季を更に細かく分けた概念を持っていることもそうだ。だからといって、日本以外にこのような細かい四季の変化がないなんてことはない。
 (2)コメント
 ここまでで皆さんどうお感じになられましたか?
 それでは私の考えを申し上げましょう。
(続く)