太田述正コラム#13456(2023.5.1)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その9)>(2023.7.27公開)

 「・・・近衛は1918年にパリ講和会議へ向かう途上、上海で孫文と会談して・・・白人優位の支配に対する黄色人種の覚醒という点で2人は・・・意気投合した。・・・
 <また、>1932年5月、駐日支那公使だった蔣作賓<(注16)>が、近衛の一高時代の同窓生だった秘書役の参事官丁紹仭<(注17)>に伴われ来訪し、以来しばしば訪問を受けることになった。・・・

 (注16)しょうさくひん(1884~1942年)。「1902年・・・、武昌文普通中学堂に進学した。このとき、宋教仁と同学になり、革命思想に傾倒するようになる。
 1905年・・・、中学堂を卒業して官費で日本に留学し、東京振武学校に入学した。同年8月に東京で中国同盟会が成立すると、蔣もこれに参加している。1907年・・・、陸軍士官学校第4期歩兵科で入学し、翌年7月に卒業した。・・・
 1912年・・・1月1日に中華民国臨時政府が南京に成立すると、蔣作賓は陸軍部次長に任命された。・・・
 しかし、袁世凱が孫文(孫中山)に代って臨時大総統となると、革命派の蔣作賓は袁から排斥されるようになる。1915年・・・に袁が皇帝即位を図ると、蔣は病気を理由に辞任した。袁は蔣の能力を恐れ、これを西山に幽閉してしまう。翌年、護国戦争が激化した段階になって、ようやく蔣は釈放された。
 1916年・・・6月、袁世凱が死去して黎元洪が後任の大総統になると、蔣作賓は参謀本部次長に抜擢された。しかし翌年7月、張勲復辟により黎は失脚してしまう。・・・
 1931年・・・8月末に、蔣作賓は駐日公使に任命され、日本に赴くことになった。ところが日本到着前に満州事変(九・一八事変)が勃発する。蔣作賓個人は強硬路線を主張したが、蔣介石はこれを望まず、やむなく蔣作賓は蔣介石の指示に従って抑制的な対応に終始した。1935年・・・5月、両国双方が公使館から大使館への格上げを行い、蔣作賓が初代駐日大使となった。
 蔣作賓は駐日公使・大使をつとめていた間、外務省情報部長天羽英二の声明や広田三原則など、様々な両国間の懸案をめぐって広田弘毅との交渉を担当し、両国間の決定的な対立を回避しようとした。しかし蔣作賓が従事した対日穏健路線は、中国国内でも大きな支持を得るには至らなかった。そして同年12月、日本の侵略に備えるために国民政府が改組され、汪兆銘(汪精衛)が行政院長を退くと、蔣作賓も駐日大使から罷免された。帰国後、内政部部長に転じている。
 1936年・・・12月、蔣介石に随従して蔣作賓も西安に向かう。このとき、張学良・楊虎城による西安事件が勃発し、蔣作賓もまた幽閉されてしまった。事件解決後は南京に戻り、1937年・・・11月、安徽省政府主席に任じられたが、2か月で辞任している。以後、国民党中央監察委員、党政工作考核委員会政務組主任などを歴任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E4%BD%9C%E8%B3%93
 (注17)「丁紹仭<は>旧制東京第一高校で近衛と同じ寮に住んでいた。」
https://123deta.com/document/yro15ojy-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7%E3%81%A8%E5%88%86%E6%B2%BB%E5%90%88%E4%BD%9C%E4%B8%BB%E7%BE%A9.html
 「丁紹仭・・・がいつも通訳を務めた。丁は今後の日中和解の連絡役として、・・・宮崎龍介・・・を指名した。近衛は龍介を「支那の台所から入っていける人物」と認識し、その名を記憶した。」
https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-15K03259/15K03259seika.pdf

 <近衛は、>・・・知人に「今日も支那公使がやって来ますが、来るたびに、ああいうようにしてもらいたい、こういうふうにしてもらいたいと、支那に都合のいいような希望ばかり持ち込んでくるので、実に困ります」と語ったという。・・・
 帰国した蔣作賓・・・<の>案が、丁・・・から1935年暮れにもたらされた。
 それは、一、満州問題は当分不問に付す、二、日華関係は平和を基礎に置く。そのため満州に関係のあるものを除き、一切の不平等条約を撤廃。中国の反日教育は防止、三、平等互恵の下に日華経済提携、四、経済提携の成績を見た上で軍事協定を結ぶ」という・・・ものだった。
 近衛は賛同して広田<首相>伝えたが、軍部が憤慨し、満州を「不問」でなく「承認」でなければならないと反対して不成立に終わった。
 丁は、「まだ希望を持っている。今後この問題をとりあげる場合には日本の連絡係として、若いところなら宮崎龍介<(注18)>、老人なら秋山定輔<(コラム#12948)>をよこしてほしい」と文麿に告げて帰国した。・・・

 (注18)1892~1971年。「宮崎滔天・・・の長男<。>・・・宮崎家に出入りする滔天の盟友・孫文や黄興とは子供の頃から親しみ、時にはスパイに狙われる孫文を<母>槌子が家から逃れさせ、高校生の龍介が付き添った事もあった。・・・一高・・・<、東大法卒。>・・・柳原白蓮<と結婚。>・・・弁護士とな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%BE%8D%E4%BB%8B

 後に盧溝橋事件勃発の際、<首相の>近衛は蒋介石への使者として宮崎の派遣を試みたが陸軍<・・杉山元陸相!・・>の妨害で宮崎が逮捕されて実現しなかった。」(81~83)

⇒この時、近衛が杉山と直接対決すべきであったのにそれをした形跡が皆無であるところ、これは近衛が怯懦であったからではなく、恐らく、首相初就任時に、西園寺から、日本の戦略的事項については、杉山の言う通りにせよと厳命されていたにもかかわらず、いわば抜け駆けをしようとして見つかってしまったからではないでしょうか。
 (ちなみに、第一次近衛内閣の時は、杉山は陸相として廣田内閣の時からの留任でした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3
し、第二次近衛内閣のときは、発足が1940年7月22日で、杉山が参謀総長になったのが10月3日です。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%8F%82%E8%AC%80%E7%B7%8F%E9%95%B7 前掲 (太田)

(続く)