太田述正コラム#13458(2023.5.2)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その10)>(2023.7.28公開)
「・・・元々の蒋介石支持者の間でも、支那事変の泥沼化とともに、共産党と合作してまで頑強に抗日戦を戦う蒋介石に対する評価には変化が生じた。・・・
著名な外交評論家だった半沢玉城<(注19)>は、戦果が上海に飛び火した後、8月22日の中ソ不可侵条約の締結について、日本の戦争目的には抗日侮日の膺懲に加えて赤化拡大を防ぐ世界的使命が加わったと論じた。
(注19)はんざわぎょくじょう(1887~1953年)。
http://soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/6398
「宮城県の医師の家に生れる。日本大学にまなんだあと『東京日日新聞』の記者を経て『やまと新聞』の編輯局長となり、山県有朋や寺内正毅、後藤新平らと近い関係にあつた。1918年ごろ、外交時報社に転じ、まもなく同社の実権を掌握(1921年社長就任)。同誌の休刊(1945年春)まで、同誌の編輯権を握つてゐた。」
http://www.sito.jp/home/research/img/presentation1.pdf
中国で教育事業に献身していた清水安三<(注20)>も、戦争目的が中国の膺懲から中国を共産主義から救うことに変ったと指摘した。・・・
(注20)1891~1988年。同志社大在学中に米オーバリン大にも学び、同志社大卒。キリスト教徒。「1917年に日本人宣教師第1号として<支那>・大連へ渡り布教活動を開始。翌1918年には奉天に移り児童園を設置し、大連の教会にて先妻、横田美穂と結婚。1920年に北京へ移り美穂と共に貧困に喘ぐ女子を対象とする実務教育機関・崇貞平民工読学校を朝陽門外に開校(翌年に崇貞女子学園となった後、1938年に崇貞学園、2000年からはパトロンの名にちなみ陳経綸中学と改称)。その後、小学校や中学校を併設し中国人のみならず在華日本人にも門戸を広げるなど尽力し、地元では「北京の聖人」と呼ばれ慕われていたという。また、天橋愛隣館という救済院(慈善病院)も作っており、。現地委員としてセルツメントに参加している。1933年に妻の美穂と死別した後、1936年天津で後妻の小泉郁子と再婚。
終戦と共に帰国、後妻の清水郁子とともに東京郊外の町田市に「キリスト教主義に基づいた国際的な教養人の育成」を建学の精神とする学校法人桜美林学園を創立し、初代学長、後に第3代の理事長を務めた。
短歌に造詣が深く、雅号は如石。・・・
北京の崇貞学園時代に魯迅と周作人の兄弟と知り合い、度々、兄弟の自宅を訪ねていた。・・・
<また、>李大釗とは彼がまだ無名の頃から親交があ<り、>・・・李大釗の名を日本で有名にしたのは安三だったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AE%89%E4%B8%89
佐々木到一<(注21)>(陸士18期)<もそう>だ。・・・
(注21)1886~1955年。陸大29期。「1922年、広東駐在武官拝命。当時広東は中国国民党の本拠であったため、ここで国民党について研究し、その要人たちと交わり深い関係を持ち、後年国民党通と言われる素地をつくった。間もなく・・・要請を受け、孫文の軍事顧問となる。・・・孫文から蔣介石を紹介された。また人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたとされる。・・・
<また、>大川周明<と>・・・仲良くなり、・・・大川の関係する行地社などから佐々木の著書<を>多数出<し>た<。>・・・
1931年、豊橋の歩兵第18連隊長だった10月、十月事件では各地の同志への連絡役を務め<、>憲兵隊の取調べを受けた<。>・・・
<その後、>満州国軍政部最高顧問に就任<。>・・・日中戦争では1937年12月、第16師団の歩兵第30旅団長として南京攻略戦に参加。陥落後の南京では警備司令官、敗残兵の剔抉を担当し、虐殺との関わりが疑われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%88%B0%E4%B8%80
佐々木は、第一次南京事件(1927年)や漢口事件の残虐無法の抗日運動などの経験を通じて、国民党の腐敗、軍機の乱れ、日本居留民に対する想像を絶する残忍さ、連ソ容共による抗日運動が激化の一途をたどったこと<、>に怒<り、>・・・次第に蒋介石の国民党に絶望するようになった。
<また、彼は、予備役編入後、満州国共和会理事をしていた(上掲)時の>1942年<の著書の中で、>・・・弱しと見ればつけ上がり威たけだかになるところの心理は、恐らく支那人を知る限りの日本人は承知している筈である。これに油を注げば如何なる非道の行為にも発展するものであることを」と述べ<ている。>」(83~84)
⇒著者が紹介する範囲では、半沢と清水の「転向」、と、佐々木のそれ、とは質的に異なるように思います。
佐々木は蒋介石政権が阿Q性を脱し得ないと総合的に判断したのに対し、半沢と清水の判断は、同政権の阿Q性の一端であるところの、無原則的合従連衡志向の顕れの一つへの過剰反応に過ぎない、からです。(太田)
(続く)