太田述正コラム#2771(2008.9.4)
<読者によるコラム:日韓の反目と安全保障(その1)>
 (これは、読者SMさんによるコラムです。)
1.はじめに
 日本国開闢以来、朝鮮半島は我が国の安全保障にとって最も重要な地域であることは疑念の余地がない。日本と朝鮮半島の諸国家との利害は歴史上必ずしも一致しなかったが、敗戦から現在に至るまで、ロシアや中国、あるいは北朝鮮といった脅威を有している点で、日本と韓国の利害はほぼ一致していると考えられる。にも関わらず、36年間の日韓併合(1910-1945)に起因すると考えられている両国間の反目のため、戦後約60年たった現在もなお安定した安全保障関係が存在しない。
 このコラムのシリーズでは、日韓関係を反目と安全保障という観点から議論した文献をいくつか紹介したい。
 (その1)では、韓国において反日感情が民族主義と結びつき、歴史教育に暗い影を落とすことで、次世代の韓国国民の国際情勢に対する認識のあり方を損ない、韓国の安全保障に暗い影を落としかねない状況を、韓国の国定教科書と、それに反対する韓国の歴史学者の著書を比較しつつ紹介する。
2.安全保障に関わる韓国の歴史教育の問題
 李栄薫ソウル大教授は朝鮮日報のインタビューに対して次のように語った。『土地や食糧の収奪、虐殺など、この作品(日帝時代を扱った小説『アリラン』)が描いた内容は事実とかけ離れている。自分も学校の図書館でこの本を借りて読んだことがあるが、本には学生らがあちこちに書き込んだメモが残されていた。例えば、日本人の巡査が土地調査事業を妨害したという理由で、朝鮮人農民を裁判にもかけずに処刑する場面では、“ああ、こんなことがあってよいのか…”と怒りを示していた。このように商業化された民族主義が横行し、被害意識だけが膨れ上がった結果、(植民地支配を実際に体験した)高齢者よりも若い世代で反日感情が強くなった。これは、商業化された民族主義と間違った近現代史教科書に基づく公教育のせいだ』(朝鮮日報 http://www.chosunonline.com/article/20070603000016
 このようにして反日感情と一体となって強くなった民族主義が特に歴史教育を通して韓国の安全保障に対しても深刻な問題を生んでいる。崔文衡、漢陽大学史学部名誉教授は『「高校の近現代史教科書が民衆民族主義を至上とする特定の理念に偏るあまり、我々が直面していた客観的現実を正しく把握できないでいる」とし、「民族・民衆を語るあまり、我々は今、国益を追求する能力さえも失ってしまった」と語った。』(朝鮮日報、http://www.chosunonline.com/article/20060115000017) 
 以上の崔文衡氏の問題意識をより詳しく知るために、具体的に、韓国の近現代史に関して韓国の安全保障および反日感情を考える上で重要と考えられる二つの出来事に関する記述を、以下の二つの違う立場の書籍から抜粋し比較した。
・「韓国の高校歴史教科書 高等学校国定国史 三橋広夫訳 明石書店」
・「韓国をめぐる列強の角遂副題:19世紀末の国際関係(崔文衡(Choi Mun-Hyung)著、齋藤勇夫訳、彩流社、2008)」
(論文(フリー): Korea Journal, “The Onslaught of Imperialist Powers and Its
  Influence in Korea” (Vol.24 No.3 March 1984 pp.4~23)
http://www.ekoreajournal.net/archive/detail.jsp?VOLUMENO=24&BOOKNUM=3&PAPERNUM=1&TOTALSEARCH=Choi%20mun&AUTHORENAME=&PAPERTITLE=&KEYWORD=&PAPERTYPE=0&SUBJECT=0&STARTYEAR=&ENDYEAR=&LISTOPTION=1&KEYPAGE=10&PAGE=1
一.江華島修好条約(1876)
 日本と朝鮮の間で結ばれたこの条約によって、それまで清国の保護国として鎖国を続けていた朝鮮の安全保障のあり方は終わりを告げた。この重大な出来事に関する上記書籍における記述を以下に示す。
 『1873年に高宗の親政によって興宣大院君が退き、閔氏勢力が権力を握り、開港と通商貿易を主張する集団が政治的に成長した。このような動きの中で日本は韓半島侵略をうかがい、雲揚号事件を引き起こした。これをきっかけに朝鮮は日本と江華島条約を結んで国の門を開いた(1876)。江華島条約はわが国最初の近代的条約だったが、釜山と他二港を開港し、日本に治外法権や海岸測量権などを明け渡した不平等条約だった。
 ついで朝鮮政府はアメリカと条約(1882)を結んだ後、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスなどの西洋列強とも外交関係を結んだ。これらの条約もやはり治外法権と最恵国待遇を規定した不平等条約だった。』(国定国史、p.116-117)
 『英露がともに相手を意識して自制方針を固めると、この両大国を自国の韓半島進出の 最大の制約要因と認識していた日本は絶好の機会を迎えることになった。そして、フランス、米国、ドイツなども直ぐにこの機会を利用して各々が韓国浸透を図ってきた。リデル神父ら天主教徒迫害を口実にした丙寅洋擾(一八六六)、ゼネラルシャーマン号事件(一八六六)による辛未洋擾(一八七一)、そしてドイツ商人オペルトの通商要求失敗 による南延君(大院君父親)墓盗掘事件(一八六六)などがそれである。すなわち、 英露両国の対決自制による相互牽制作用から派生した力の空白が日本を始め多くの国をして韓半島浸透の試みを可能にしたのである。・・・
 日本はこのように英露の対立を逆に利用して、両国の干渉という日本の韓半島進出の 第一制約要因を軽く取り除き、続く清国の干渉と言う第二制約要因も順に除去することに成功した。一八五四年に英露の修交提案を二国が交戦中との理由で拒絶したことのある日本としては、明治維新を経て二〇余年の歳月を重ねた一八七六年ごろには国際情勢を適切に活用できないわけはなかっただろう。すなわち、侵略の機会を捉えるには英露を手本とし、相対国清国の苦境を好機として利用し、侵略方法には米国のペリー提督を真似て、いわゆる砲艦外交を駆使したのである。
 この結果、日本はまず江華島修好条約第一条に、韓国が自主之邦であると主張し、韓国に対する清国の宗主権を否定して、従来の日本と韓国との隣国交流の関係を近代的不平等関係に切り替えた。これは清の干渉を排除するための布石だった。・・・
 しかしどうあれ、日本の強圧に屈服して結んだ江華島条約は、以後韓半島が列強の争奪の対象に追われる最初の段階になったのは事実である。』(「韓国をめぐる列強の角遂」p.31-35)
 どちらの文献も、この条約の締結をそれ以降の朝鮮半島における激動の歴史の始まりとして認識していることは共通しているが、後者の崔文衡氏の記述の方が多国間の競合のダイナミズムの中でこの条約の締結をとらえているのに対し、前者の国定国史はこの出来事を日本と朝鮮の二国間のみの関係で捉え、他の列強諸国はそれに追随した形でしかとらえていない点で不十分である。
二.日清戦争(1894)
 日清戦争は、朝鮮が自助努力による独立維持の可能性を失ったという点で非常に重要であると共に、日韓併合への第一段階であるため反日感情とも密接に関わっていると考えられる。
 『甲午改革と乙未改革
 農民の不満と改革への要求によって、政府はこれを反映した改革を推し進めざるをえなかった。このとき、日本を朝鮮への干渉を維持するために景福宮を占領し、清日戦争を引き起こした(1894)。金弘集内閣は農民の不満と改革への要求を反映させようと軍国機務処を設置し、政治、経済、社会など国家の主要政策に対する改革を推し進めた(甲午改革、1894)。』(国定国史、p.120)
 『日清戦争はアジアにおける帝国主義時代の開幕を知らせる戦争ということができる。この戦争は清国の無力さを露出させ帝国主義列強に清国分割の道を開いた画期的事件だった。戦争以前の清国は交易相手国として列強の関心を集めたが、戦争以後は侵略的分割の対象に変わった。・・・
 しかし、何よりもわれわれの注目を引くのは、この戦争が韓国を争奪対象として直接韓半島で展開された事実だ。そしてこの戦争は、韓国の運命を悲劇に陥れた初期段階としての意味を併せ持っていた。実に日清戦争は戦勝国日本をアジア唯一の帝国主義列強にした反面、戦敗国清国を半植民地に、そして日清の争奪対象だった韓国を植民地の道へと追い立てていったのである。もちろん日露戦争が終わるまでは、未だ韓国の帰属方向は決定されていなかった。しかし歴史を動かす力の源泉が既に韓国から離れ、列強の手中にあったかの如く、わが運命は列強対決の最終勝利者に左右されるしかなかったのである。』(「韓国をめぐる列強の角遂」p.82)
 驚くべきことには、前者の国定国史では日清戦争に関する詳細な記述や歴史的意味の解説が、それらの重要性にも関わらず存在しない。
 以上のように、韓国の国定国史は、国内情勢ないしは日本との関係のみに記述が終始し、19世紀末の朝鮮の安全保障のあり方に決定的役割を果たした「列強の角遂」が十分に記述されていない。この原因は、民族主義や反日感情が強いあまり、当時の朝鮮人が日本をはじめとする列強諸国に十分な対抗手段をとれなかった現実を直視できないことに原因があると推測される。原因はともあれ、このような歴史教育は、国際情勢を見誤ることで国が滅んだ過去の教訓が新しい世代に継承されないという安全保障上重大な問題を孕んでいる。
 このような問題意識を、崔文衡氏は上記著書の序文で次のように述べている。『今日、われわれは”世界化”という名のもと、いわゆる”第二の開放”を強要されている。これは100年前に帝国主義列強により強要された”第一の開放”と筋道が同じだ。・・
 ”第二の開放期”に対する真っ当な歴史認識が切実だという著者の考えの根拠もここにある。・・われわれ韓国の地に侵入した帝国主義列強の本質とその実態を理解しなければ、開放期の歴史を正しく把握できない。本書は、世界に向けて門戸開放をしたわれわれの先人が帝国主義の本質と国際情勢に暗いために、試行錯誤を繰り返した過去の歴史を直視することにその目的がある。』この言葉は、韓国国民のみならず、安全保障を米国にまるなげしたまま国際情勢の急激な変化に目をつむっているかに見える日本国民にとっても肝に銘ずべきものだと思う。
 次回のコラムでは、このような深刻な歴史的反目の問題を抱える日韓の安全保障問題を分析するために、ビクター・チャ、前NSCアジア部長(現ジョージタウン大教授)が、その著作「米日韓 反目を超えた提携」(原題、”Alignment Despite Antagonism: The United States-Korea-Japan Security Triagnle”)において提唱している疑似同盟(quasi-alliance)理論を紹介する。
(以上、リンクは2008/08/28アクセス)
3.謝辞
本コラムは「太田述正掲示板」において、2008年7月22日から8月9日の間に行われた議論に基づき執筆された。議論をしてくださった安保様、海驢様、雅様、どうもありがとうございました。
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太田述正コラム#2772(2008.9.5)
<読者によるコラム:英国=米国の属国?>
→非公開。