太田述正コラム#13460(2023.5.3)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その11)>(2023.7.29公開)

 「・・・蒋介石の支援者だった宮崎龍介も、事変勃発後に蒋介石批判に転じた。・・・
 「・・・日本は現在世界三大政経ブロック制覇の現状に、解放自立の戦いを余儀なくされているのであり、絶対不可分の運命的関係にある支那民族もまたこの戦いに協同すべき立場にある。しかるに蒋介石らは日本のこの立場を理解せず、東洋赤化を目的とするソ連と結び、彼らの師である孫文の忌避した英国帝国主義の財政援助にその身をゆだねようとしている。これは支那のインド化を推し進めるだけだ。・・・」<と。>・・・

⇒蒋介石の無原則的合従連衡志向批判こそ十全に行っている点では半沢と清水よりまともですが、やはり蒋介石政権の阿Q性に触れていない点で佐々木には及ばず、孫文についても買いかぶっています。(太田)

 また、蒋介石と四半世紀にわたり交遊した山田純三郎<(注22)>も、・・・「・・・孫文の日支連盟の線に沿って進むべきであった。日本と手を携えて白人専制に対抗すべきであった。・・・

(注22)1876~1960年。「[津軽藩士・山田浩蔵の三男として]弘青森県弘前<に>生まれ<、>伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。東亜同文会<の>清国派遣留学生の選考に合格して上海に渡り、その後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学した。この頃、兄<の良政>に孫文を紹介されている。
 [良政はこの南京同文書院の開設準備にあたり、また教授を務めていた。同年夏、義和団事件の影響などもあり、南京同文書院は上海へ移転し翌1901 年より「東亜同文書院」と名を変え、再出発することになった。良政は上海へ移転する頃に辞職して孫文の革命活動に本格的に加わり、1900 年秋の恵州蜂起で戦死した。<支那>の革命で犠牲となった最初の外国人といわれる。]
 卒業後は同院教員、日露戦争での通訳従軍を経て南満州鉄道に入社した。
 兄の遺志を継いで孫文を支援し続け、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても山田は信頼を受けた。再び孫文が政権を回復した場合、日本軍が孫文に協力する旨の日中盟約を秋山真之海軍軍務局長が作成した際には仲介役を担っている。しかし、秋山は、日本政府の袁世凱支持方針に反するとして左遷された。
 袁世凱後の段祺瑞政権下においても山田は孫文の信頼を受け続けており、その動向は常に日本側の監視下におかれていた。
 1925年(大正14年)北京での孫文臨終には唯一の日本人として立ち会っている。
 その後、山田は1945年(昭和20年)の日本敗戦まで上海で過ごした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%B4%94%E4%B8%89%E9%83%8E
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=10345&file_id=22&file_no=1&nc_session=injohhq25jrmav3dgal8n50n73%20target= ([]内)

しかし、今日の蒋介石は昔の情に厚い、武士的な彼とは違うから、その上宋美齢が付いている以上、逃げるだけ逃げるであろう」と述べた。・・・

⇒山田に対しても、宮崎に対してと、基本的に同じ批判が当てはまります。
 とりわけ、腐敗した宋一族の跋扈を許したことが蒋介石自身の阿Q性の顕れであるとの認識が欠如していることが見て取れます。(太田)

 中国戦線が膠着したため・・・陸軍中枢ですら、例えば拡大派の巨頭だった武藤章は、やはり蒋介石を対手として和平すべきだと考えるようになった。・・・
 <しかし、結局、>陸軍では、親日政権を樹立し、これを育成することで事変解決を図る動きが活発化した。・・・
 <こうして始められた>汪兆銘工作を失敗させた決定的な原因は、興亜院を中心とした露骨な権益要求の下に、梅華堂<(注23)>での苦渋の協議を経て1940年3月30日に樹立された汪兆銘政府が、その当初から既に傀儡政権となったことだった。

 (注23)梅華堂とは梅機関のことであり、影佐機関を指す。
https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00003dfi9o-att/12kikakutenpdfall.pdf

 しかし、そのレールは、近衛内閣の下で既に敷かれていた。
 影佐・・・や今井・・・が高宗武<(コラム#10289)>・・・梅思平<(コラム#10289)>・・・との懸命な協議によって漕ぎつけた日華協議記録の内容は、1938年11月30日御前会議決定の日支新聞係調整方針<(注24)>によってかなり後退した<からだ>。

 (注24)「「日支新聞係調整方針 別紙 日支新聞係調整要綱
第一 善隣友好の原則に関する事項
 日満支三国は相互に本然の特質を尊重し渾然相提携して東洋の平和を確保して善隣友好の実を挙くる為各般に亘り互助連環友好促進の手段を講すること
一、支那は満州帝国を承認し日本及満州は支那の領土及主権を尊重し日満支三国は新国交を修復す
二、日満支三国は政治、外交、教育、宣伝、交易等諸般に亙り相互に交誼を破壊するか如き措置及原因を撤廃し且将来に亙り之を禁絶す
三~五、[略]
六、日本は新中央政府に少数の顧問を派遣し新建設に協力す特に強度結合地帯其他特定の地域に在りては所要の機関に顧問を配置す〔中略〕
第二 共同防衛の原則に関する事項
 日満支三国は共同して防共に当ると共に共通の治安安寧の維持に関し協力すること
一、日満支三国は各々其領域内に於ける共産分子及組織を芟除すると共に防共に関する情報宣伝等に関し提携協力す
二、日支協同して防共を実行す 之か為日本は「所要の軍隊を北支及び蒙疆の要地に駐屯す
三、別に日支防共軍事同盟を締結す
四、第二項以外の二五本軍隊は全般竝局地の情勢に即応し成るへく早急に之を撤収す
 但保障の為北支竝南京、上海、杭州三角地帯に於けるものは治安の確立する迄之を駐屯せしむ
 共通の治安安寧維持の為揚子江沿岸特定の地点及南支沿岸特定の島嶼及之に関連する地点に若干の艦船部隊駐屯す尚揚子江及支那沿岸に於ける艦船の航泊は自由とす
五、支那は前項治安協力のための日本の駐兵に対し財政的協力の義務を負ふ
六、日本は概ね駐兵地域に存在する鉄道、航空、通信竝主要港湾水路に対し軍事上の要求権及監督権を保留す
七、支那は警察隊及軍隊を改善整理すると共に之か日本軍駐屯地域の配置竝軍事施設は当分治安及国防上必要の最小限とす
 日本は支那の軍隊警察隊建設に関し顧問の派遣、武器の供給等に依り協力す〔中略〕

一、支那は事変勃発以来支那に於て日本国民の蒙りたる権利利益の損害を補償す
二、第三国の支那に於ける経済活動乃至権益か日満支経済提携強化の為自然に制限せらるるは当然なるも右強化は主として国防及国家存立の必要に立脚せる範囲のものたるへく右目的の範囲を超えて第三国の活動乃至権益を不当に排除制限せんとするものに非す・・・
 <すなわち、以上のように、>賠償請求を加え、撤兵時期は明示せず<。>」
https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00003dnngu-att/20211204lecture_resume_revised_revised.pdf

 もう一つは、重慶を脱出した汪兆銘が最も期待していた「日本軍の撤兵」が第三次近衛声明に欠落し、汪兆銘の梯子を外してしまったことだ。」(85~86、89~90)

⇒私見では、そもそも、杉山元らにとっては、汪兆銘工作や汪兆銘傀儡政権樹立は、日本の軍事行動継続と相俟って、蒋介石政権を弱体化することによって、将来、中国共産党に(満州を含めた)支那を支配させることが目的なのですから、全て、予定通りの進展だったわけです。(太田)

(続く)