太田述正コラム#13462(2023.5.4)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その12)>(2023.7.30公開)

「・・・近衛は、第一次声明にこだわることなく蒋介石との和平を推進させるため宇垣を外相に登用した<のだが、>・・・<その>辞任の原因ともなり、外務省の権限を大幅に制限することとなった興亜院は、1938年12月16日、設立された。
 総務長官に柳川平助陸軍中将が、政務部長に鈴木貞一陸軍少将が就任した。
 興亜院は、内閣直属の機関で、近衛自身が総裁だった。
 したがって、・・・近衛がその最終責任を担う立場にあった。・・・
 近衛内閣は、まもなく翌1939年1月4日に総辞職した。
 しかし、後継の平沼内閣との連続性はあり、近衛も無任所大臣として入閣した。
 これは、汪兆銘を中心とする対中国政策の連続性を担保することにあった。・・・
 <とにかく、>近衛は対中政策を興亜院に「丸投げ」し、なんら指導力を発揮しなかった。
 鈴木貞一は、「近衛さんは・・・支那の問題は・・・興亜院に任し切り……柳川さんはなんにもしないで僕に任し切り……ほとんど自分(鈴木)の思う様に興亜院というものは動かしておった」と回想する・・・。・・・
 影佐は、・・・<首相の近衛が>撤兵条項を欠落させたの・・・は、陸軍の要望によるものであったとしている<し、>・・・保坂<正康も>・・・陸軍側が内々に圧力をかけ、性格の弱い近衛がそれに負けたというのが真相であろう・・・としている。・・・
 他方、春日井邦夫<(注25)>・・・は、・・・日中戦争の拡大を煽っていた・・・尾崎秀実ら、近衛の取り巻きの左翼のブレーンによるものと推論して<おり、>・・・江崎道朗<(注26)>も・・・この説を支持している。・・・

 (注25)1925年~。東京都立航空工業学校卒、1965・・・年より22年間、内閣調査室に勤める。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%98%A5%E6%97%A5%E4%BA%95%E9%82%A6%E5%A4%AB_000000000583033/biography/
 (注26)1962年~。九大文(哲学)卒、現在、「日本会議国会議員懇談会の政策研究を担当する専任研究員。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B4%8E%E9%81%93%E6%9C%97

 近衛は、「対手とせず」の第一次声明については深い反省を手記で示しているが、第三次声明の撤兵条項の欠落についてはなんら語っておらず、黙殺している。・・・
 <その後、>ソ連のスパイだと<露見したところの、>・・・尾崎ら取巻きの者たちの画策によって、・・・撤兵条項の削除をしたこと・・・について一切口にしなかった、いやできなかったのではなかろうか、という推測も成り立とう。
 ただ、影佐も・・・犬養健<(注27)>・・・も、また中山優<(注28)>も、撤兵条項の欠落に・・・近衛声明原案を・・・牛場首相秘書官と共に執筆した<ところの、>・・・尾崎<、>が関与した・・・とはまったく述べていない。

 (注27)いぬかいたける(1896~1960年)。「犬養毅の三男<。>・・・東京帝国大学哲学科中退後、白樺派の作家として活動した後に政界入りした。1930年の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で東京2区より立候補し初当選。・・・1937年:第1次近衛内閣の逓信参与官に就任。・・・汪兆銘(汪精衛)を擁して、日本占領下の南京に汪兆銘の国民政府を設立させる活動に傾注した。・・・1941年:ゾルゲ事件への関与容疑で拘引、警察当局の取り調べを受け起訴されるが無罪。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E5%81%A5
 (注28)[東亜同文書院<卒。>]「建国大学教授。[満洲国初代南京公使、亜細亜大学教授、]漢文学の大家。東亜連盟論者であり近衛文麿のブレイン。」
https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%84%AA
https://fusensha.ocnk.net/product/2845 ([]内)

 尾崎犯人説も決定的とまではいえない。」(92、95~98)

⇒「対手とせず」の第一次声明も撤兵条項が欠落した第三次声明も、杉山元らから、真の理由を開示しないままなされた指示、を受けて不承不承近衛が発出したもの、というのが私の見方であるところ、近衛が第三次声明への反省を、というか、言及を、その後しなかったことに関してだけは、著者の勘繰り通り、尾崎らとの関係を改めて詮索されることを回避したかったからだと思います。
 ちなみに、1937年に日支戦争が始まると、中山優も、「日本の武力行使を中国の抗日・侮日に対する「無礼打ち」と表現しました。中山は中国のナショナリズムや統一の動きに肯定的だった人ですけれども、そのナショナリズムがイギリス資本を基盤とし、コミンテルンに踊らされているという点を批判することになります」(戸部良一「日本人は日中戦争をどのように見ていたのか」より)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000146806.pdf
と、宮崎龍介と同趣旨の蒋介石政権批判をしています。
 結局のところ、その大部分がアジア主義者であったところの民間の支那通達は、おしなべて、孫文/蒋介石、ないし、孫文/蒋介石政権、の阿Q性に意識的無意識的に自分達が目を瞑って来たことの愚かさを1937年にもなって突き付けられて愕然とした、ということのようですね。
 まことにもって無様なことです。(太田)

(続く)