太田述正コラム#13468(2023.5.7)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その15)>(2023.8.2公開)
「・・・結局、1940年10月12日に開催された大政翼賛会の創立総会では、近衛は前日まで綱領の検討に苦心していたものの、力強い運動の展開を期待して集まった会衆に、近衛は「本運動の綱領は大政翼賛、臣道実践ということにつきる。これ以外に綱領も宣言もない」と言って会衆を唖然とさせた。
翼賛会には、右から左まで様々な人士が幹部となっていたが、次第に「翼賛会はアカだ」との批判が強まり、その批判を受けた初代の事務総長有馬頼寧<(コラム#10377)>らの辞任を余儀なくさせた。
近衛内閣が倒れ、東條内閣となってからの翼賛会は、軍国主義を煽り、追随するだけの組織に化してしまった。・・・
近衛は、第二次近衛内閣に、第一次内閣の書記官長だった風見章<(コラム#13426)>を司法大臣に起用した。
風見は司法関係には素人だったが、近衛は、司法大臣の任務は次官に任せておけばよいので、風見には新体制構想を進めるよう指示した。・・・
富田健治<(注32)>は、警察幹部としての勤務時代<(注33)>から近衛と肝胆相照らす仲で、腹蔵なく時世を語り合い、兄弟のような交友関係にあった。
(注32)1897~1977年。神戸市生まれ。京大法卒、「内務省に入り・・・警保局長、長野県知事を歴任。・・・1940年(昭和15年)7月から1941年(昭和16年)10月まで第二次および第三次近衛内閣で内閣書記官長を務め、新体制運動をおしすすめた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%81%A5%E6%B2%BB
(注33)「局長経験のない羽生雅則を内務次官に、知事経験のない富田健治を警保局長に、とそれぞれ抜擢した人事・・・は、海軍出身であり省内事情に疎かった末次<内相>を補佐する立場にあり、文相として入閣した・・・安井英二・・・の意向を反映したものであった。・・・しかし・・・この異動は、警保局長に抜擢された富田の「ファッショ的傾向」を天皇が問題視して発令を遅らせたことから出足からつまずいた。しかも・・・省内から・・・経歴不足の<配置であるとの>批判<が起こり、>・・・新たな首脳部の下での知事の異動が省内全体に蓄積した憤懣を表面化させ、羽生と富田は在職わずか6か月で・・・辞職に追い込まれてしまう。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/51/0/51_0_157/_pdf/-char/en
安井英二(1890~1982年)は、一高、東大法、内務省入省。「岡山県知事・大阪府知事・文部大臣(第1次近衛内閣)・内務大臣兼厚生大臣(第2次近衛内閣)・神祇院総裁・貴族院議員などを歴任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E8%8B%B1%E4%BA%8C
⇒富田と近衛の因縁については、ざっとネットで調べた限りでは、「注33」くらいしか分かりませんでした。(太田)
近衛は、その富田を第二次内閣の書記官長に抜擢した。
富田は右翼的だとの批判もある人物だったが、書記官長として近衛を的確に支え続けた。・・・
川田稔<(注34)>・・・は、<9月27日の>三国同盟<締結>は、必ずしも陸軍がリードしたものではなく、近衛首相の指示の下に・・・当時ロンドンにいた・・・重光葵<のほか、>東郷茂徳、有田八郎など外務省の幹部<の>・・・強<い>反対<を押し切って>・・・松岡外相主導で行われたものだったが、武藤軍務局長ら陸軍中央もそれを容認していたとする。
(注34)1947年~。歴史学者・政治学者。岡山大法文卒、名大院博士課程単位取得満期退学、同大博士(文学)。名大法助手、日本福祉大講師、助教授、教授、名大教授、、名誉教授、日本福祉大教授、退任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E7%A8%94
⇒何度も繰り返しますが、当時の陸軍中央は杉山元です!
10月3日に参謀総長に就任する杉山の了解の下、陸軍は三国同盟締結に賛成した、ということなのです。(太田)
武藤軍務局長らは、当初はアメリカを刺激することを避け、対英軍事同盟にとどめる意向であったなど、三国同盟締結には積極的ではなかったという。
ただ、南方武力行使の際は独伊との連携が必要であり、また、三国同盟及びソ連との提携によってアメリカの参戦防止を期待していた面もあったようだ。
また、三国同盟推進派の陸海・外務の実務担当者の間では、三国同盟の目的は、ドイツの勝利を信じ、ドイツが勝利すれば戦後に東南アジアや太平洋地域の英仏蘭の植民地をすべてドイツが独占することを恐れたため、ドイツとの合意によりそれを日本も分割・確保することにあったとも言われる・・・。・・・
<武藤の>部下石井秋穂<は、「>・・・昭和16年・・・5月在ベルリンの日本武官より日米交渉の条件が三国同盟の脱退を前提とするなら反対なる旨の電報が来た。武藤は私に叱責の電報を書けと命じた。この電報案を局長、次官を経最後に東條<陸相>に持って行ったら彼は自ら手を入れてさらに酷な文章にして厳戒を与えた」という・・・。
海軍は、平沼内閣以来、三国同盟が日米開戦につながることを恐れ、基本的に反対姿勢であり、同盟に躊躇していた近衛は海軍が明確に反対してくれることを期待していた。
しかし、その近衛が積極論に転じたのは海軍が反対論を取り下げ、近衛の梯子を外したことが大きかった。」(103、112~114)
⇒松岡を外相に起用したのは近衛なのであり、本件で近衛の弁護をするのは無理筋というものでしょう。(太田)
(続く)