太田述正コラム#13472(2023.5.9)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その17)>(2023.8.4公開)
「・・・近衛は、・・・次の回想をしている・・・。
「・・・少なくとも同盟締結後、1年有余米国が参戦せず、日米交渉においても、米国は三国同盟の骨抜きのために執拗に努力したことは、この同盟が米国にとって厄介なものであり、これが存する限り米国は容易に参戦できない事情にあったことを雄弁に物語る・・・
⇒当時、米国では、ローズベルト政権以外は上下両院を含め依然孤立主義ムードだったのであり、南北大陸外で何が起ころうと、米国自体に軍事的脅威が直接志向されない限り、南北アメリカ大陸外の国に対する戦争に踏み切ることなどありえなかったのであり、だからこそ、当時、英国は、米国内で世論を変えるための諜報活動にしゃかりきになっていた(コラム#省略)のですから、このような近衛の認識は完全に誤りですし、そのことを指摘しない著者にも困ったものです。
もちろん、そんなことは、杉山元らにとっては常識だったはずです。(太田)
三国同盟の議を進めながら突然独ソ不可侵条約を締結したのが<ドイツの日本に対する>1回目の裏切りであり、次に三国同盟を締結しながら独ソ開戦をしたのは2回目の裏切り行為であ<る。>・・・
⇒日本とは違って、ドイツはもちろんですが、イタリアもまた、(イタリアの場合は1940年6月10日に)第二次世界大戦に参戦した後(の9月27日)に三国同盟を締結した国であるところ、
https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/world-war-ii-key-dates
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
日本と同じく、このイタリアは、独ソ不可侵条約が締結された1939年8月23日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
時点ではまだ第二次世界大戦に参戦していなかったにもかかわらず、独ソが不可侵条約締結へとの情報を当時の伊外相チアーノはムッソリーニに報告すらせず、事後的に締結を知ったムッソリーニも単に驚いただけだったのです
http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10086451-19841200-1005.pdf?file_id=1691
から、日本での当時首相であった平沼騏一郎・・「日本政府を無視した容共姿勢に転換したドイツのやり方に驚き呆れ、8月28日「欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職し<てしまっ>た。」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E9%A8%8F%E4%B8%80%E9%83%8E
、や、その次の次の首相であった近衛文麿、の独ソ不可侵条約締結への反応はナイーブ過ぎだったと言うべきでしょうね。
但し、ドイツの独ソ戦開始に関しては、「ムッソリーニ<は>ヒトラーの対英戦を放置した二正面作戦を「狂気」と批判した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%88%A6%E5%9F%9F%E8%BB%8D
らしいので、独ソ戦に対する近衛の反応は、ムッソリーニ並みには正常なものでしたが・・。(太田)
法理上、日本は米国がドイツに宣戦した場合において初めて米国に宣戦する義務があるのであり、日本はその前に自ら宣戦したのであり、法理上、日米開戦と同盟には因果関係はない。
事実上も通商条約の廃棄は同盟締結前の15年4月に行われており、資産凍結令は、同盟締結後約10か月後の仏印進駐を契機として行われたのであって、同盟締結を直接の反響とするものは何もなかった」・・・
⇒ですから、そんなことは当たり前であるわけです。(太田)
天皇も、・・・1941年4月、日米諒解案交渉開始の報告を受けたとき、4月21日、・・・次のように<内大臣の>木戸に語った・・・。
「米国大統領があれ迄突っ込みたる話を為したるは寧ろ意外とも云ふべき(だ)が、こう云ふ風になって来たのも考へ様によれば我国が独伊と同盟を結んだからとも云へる、総ては忍耐だね、我慢だね」・・・」(120~122)
⇒天皇もまた、当時の米国のことが全く分かっていなかったということです。
私は、木戸に対しては、少なくとも彼が内大臣になった1940年6月1日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
までには、杉山構想が開示されていたと見ており、木戸は、天皇が分かっていないことが分かっていながら、(当然ですが、)あえて天皇に本当のことを伝えなかった、とも見ているわけです。
(木戸は、米国に日米交渉を妥結させるつもりなどないことだって杉山元らから聞かされていたはずです。)
なお、このくだりの典拠は木戸幸一日記であるところ、このくだりに関しては木戸は事実を記したと見てよいでしょう。
その目的は、もちろん、敗戦後の戦勝諸国からの昭和天皇の戦争責任追及に対して、同天皇が事実を教えられず何も分かっていないまま神輿に乗せられていただけである、との申し開きに使う証拠の一つにするためです。(太田)
(続く)