太田述正コラム#2711(2008.8.5)
<ソルジェニーティンの死>(2008.9.17公開)
1 始めに
 ロシアの作家ソルジェニーティン(Alexander Solzhenitsyn)が89歳で亡くなりました。
 
 彼がエリティンによる表彰を蹴ったがプーチンによる表彰は受けた話を以前(コラム#1885で)したところですが、手厳しい弔辞が英国等の主要メディアに載ったのでご紹介しておきましょう。
2 米スレート誌
 ・・・どんな人でも完璧であることはありえない。ネルソン・マンデラだってダニエル・アラプ・モイ、フィデル・カストロ、ムアンマール・カダフィ、そしてロバート・ムガベには甘かった。しかも、困難な闘争において一時的な同盟者として彼らを必要とした時期ではもはやなくなってもなお甘かったのだ。
 ソルジェニーティンは、米国に亡命した時、ヘンリー・キッシンジャーの忠告に従ったところの、ジェラルド・フォード大統領によってホワイトハウスから遠ざけられた。しかし、この共和党のブレジネフとの共謀を非難するより、彼はロック音楽が好きな米国人達に対して怒りをぶつける方を選んだ。(私が当時形容したように)ハーバード大学で行った悪名高い彼の講義のアヤトラのような調子は、彼の本心だったのだ。時が経つにつれて彼はよりロシアの古典的な排外主義者的となり、その作品は、より饒舌かつプロパガンダ的に、少し礼儀正しく言えば、年とともに風変わりなものになって行ったのだった。
 彼の最も最近の本である『200年間一緒に(Two Hundred Years Together)』は、ロシア人とユダヤ人の危うさに充ちた関係に関する率直な考察を意図したものとされているが、このテーマは、彼のこれまでの著作のいくつかの中でもしばしば顔を覗かせていたものだ。彼はこのテーマの探求が、コスモポリタン(でしばしばボルシェビキ志向)であるユダヤ人を古よりロシアのナショナリスト達が毛嫌いしていたこととは何の関わりもないとしており、彼の言い分を信じたいところではある。しかし、スロボダン・ミロシェビッチやセルビアの聖なる大義への彼の賛同、再生した(そして新たに国家の支援を受けることとなった)ロシア正教への彼の有頂天ぶり、そして冷たい目をしたウラジミール・プーチンに対する彼の遅咲きの賛嘆、を合わせ考慮すると、これらの結果としての彼の態度や偏見からしても、彼はトルストイではなく、ドストエフスキーであると言いたくなってくる。NATOのバルカンにおける「凶暴な」行動を非難する一方で、チェチェンにおけるロシア軍兵士達の行為について一言も語ることなく、ソルジェニーティンは、その晩年の何年かを、それが正しいか間違っているかはともかくとして、ソ連時代に経験した恐怖を「ジェノサイド」と呼ぼうとしているところのウクライナのナショナリスト達に対して非生産的な酷評を投げつけることによって過ごしたのだった。・・・
 (以上、
http://www.slate.com/id/2196606/
(8月5日。以下同じ)による。)
3 英ガーディアン紙
 ・・・ソルジェニーティンによるソ連共産主義の分析は、ロシアの歴史や性格にはそぐわないところの全体主義体制をボルシェビキがロシアに押しつけたという観念に立脚していた。
 彼に言わせれば、ロシア文化、とりわけロシア正教の文化は無神論のソ連の文化によって抑圧されたのだ。
 ソ連にとって好ましからざる人物として、ソルジェニーティンは1974年から米国で亡命生活を送ったが、欧米の文化もまた彼のお眼鏡にはかなわなかった。
 歴史に関する彼の著作は、すべてがバラ色だった理想化された帝政時代へのあこがれの念に充ち満ちている。彼は、正教の基礎の上に築かれ、欧米の個人主義的自由主義に対する代替イデオロギーを提供するところの統一スラブ国家(ロシア帝国)、という夢の中の過去への逃避を試みたのだ。
 1991年にソ連が崩壊すると、ソルジェニーティンは、当時ロシアの新聞に寄稿したように、ロシア、ウクライナ、ベラルスを包摂し、そこにおいて代替文化が花開くところの統一スラブ国家が創設されることを期待した。
 1994年にロシアに戻ると、ソルジェニーティンは1990年代におけるロシアへの資本主義導入に伴う行きすぎに反対の声を挙げた。それに加えて、彼はウクライナの独立に声高に反対した。
 しかし、プーチンが権力の座につき、ナショナリズム、及びロシアが「ユニーク」で欧米のリベラルな文化と「違っている」という観念が復活すると、彼の見解の信憑性が増大した。最近彼は、クレムリン寄りの新聞に、欧米でも広く転載されたところの論考を寄稿し、いわゆる1932~33年のウクライナにおけるホロドモール(Holodomor)ジェノサイドは、ウクライナのナショナリストによってでっち上げられ、欧米のロシア嫌いが飛びついたところのいかれたおとぎ話だと主張した。この論考は、ちょうどロシアの国会において、同様の決議が行われた時に新聞に掲載されたものだ。
 (以上、
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/aug/04/solzhenitsyn.russia
による。)
4 英ファイナンシャルタイムス
 歴史家がソ連の終焉について書く場合、モスクワで89歳で亡くなったアレクサンダー・ソルジェニーティンが果たした役割について特記すべきだ。
 ヨセフ・スターリンによって設立された政治犯収容所に関する彼の本・・『イワン・デニソビッチの生涯における一日』から『収容所列島』に至る・・の出版なくして、あの体制の全体像が白日の下に晒されることはなかったかも知れないのだ。
 しかし、ソルジェニーティンは、自分の生まれた地の狂気と腐敗について批判的であったのと同様、そこで20年間亡命生活を送ったところの欧米の物質主義と道徳的邪悪さについても批判的だった。実際、冷戦たけなわの1978年のハーバード大学における有名な講演において、彼は、メディアからの「情報提供の過剰」を含むところの欧米の生活の「破壊的で無責任な自由」の批判、米国によるベトナム和平の非難を行い、ロシアに共産主義に代えて「欧米モデル」を押しつける一切の考えを拒否した。・・・
 (以上、
http://www.ft.com/cms/s/0/ed439548-6255-11dd-9ff9-000077b07658.html
による。)
5 終わりに
 ソ連の崩壊に重要な役割を果たしたソルジェニーティンは、晩年には非自由民主主義的なロシアのプーチン体制の擁護者となったわけですが、100年後にソルジェニーティンの世界的評価がどうなっているか、知りたいものですね。