太田述正コラム#13474(2023.5.10)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その18)>(2023.8.5公開)
「・・・第二次近衛内閣の下で、・・・陸軍は北進論を断念するに至った。
こうして陸海軍とも南進論に収斂することとなり、<1941年>7月28日、南部仏印進駐が敢行された。
しかし、当時陸軍内部は、南進論に転じたとはいえ、その目的が援蒋ルートの遮断による日中戦争解決のためか、資源獲得を目指す南進そのものが目的なのか、南進の対象地域は英領か蘭印か、あるいはその双方か、など意見は一致せず様々な思惑がからみあっていた。
⇒この部分、著者は典拠を示していません。
もとより、陸軍内部では様々な意見があったでしょうが、杉山元らに関しては、目的は米国を対日経済制裁強化へと誘い、日本国内で海軍も巻き込んだ形で対米英開戦機運を高めるところにあったわけです。(太田)
南部仏印進駐は決定的にアメリカを刺激し、石油などの全面禁輸の厳しい制裁措置が課されることとなり、陸海軍の中に、日本が完全に追い詰められる前にアメリカと開戦すべきだとの開戦論が高まった。・・・
しかし、陸軍内でも・・・1941年6月に総力戦研究所・・・に配属された・・・堀場一雄<(注37)のように、>・・・南進論に強く反対し続けた者もいた。
(注37)1901~1953年。幼年学校、陸士34期、陸大42期(恩賜)。「愛知県出身。陸軍士官学校34期卒業で、同期の服部卓四郎および西浦進と並んで「34期の三羽烏」と称された。・・・1932年(昭和7年)12月 補参謀本部部員(作戦課兵站班)<、>1934年(昭和9年)4月 補陸軍省軍務局附<、>5月 支那・欧州視察後、ソ連駐在(大使館付陸軍武官補佐官)<、>1937年(昭和12年)3月 補参謀本部部員(戦争指導課)、兼陸軍省整備局課員、企画院事務官<、>8月 任航空兵少佐<、>1939年(昭和14年)3月 任航空兵中佐<、>12月 補支那派遣軍参謀(政務)<、>1941年・・・8月 任陸軍大佐」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%A0%B4%E4%B8%80%E9%9B%84
⇒(杉山構想が開示されていない上に、)機密情報に接することができる部署にもいなかったところの、まだ中佐だったところの、堀場、をここで持ち出すことに、一体、何の意味があるのでしょうか。(太田)
日中戦争の拡大を煽りに煽った尾崎<秀実>は、日本が対ソ戦の北進策をとらず、南進策をとり、英米と敵対させて戦線を開かせようと懸命に動いた。
それはゾルゲを通じたソ連・コミンテルンのスパイである尾崎の確信犯としての行動だった。・・・
1941年10月4日、ゾルゲは、日本が南進論に決しソ連には向かってこないという決定的情報をソ連に送り、これによりソ連は独ソ戦に専念して勝利できた。・・・
尾崎は、日本が軍事行動に出るのを押さえて1941年の夏と秋を無難に乗り切れば、冬季のシベリアでは行動を起こせなくなると読んで<いて、>・・・日本の対米戦が不可避となり、それによってソ連<が>安泰とな<った>・・・と信じると、「俺の役割はもう終わった、もう死んでもいいよ」と親友の柘植秀臣<(注38)>に語ったという。
(注38)つげひでおみ(1905~1983年)。東北大理(生物学)卒、上海自然科学研究所嘱託を経て、東北大博士(理学)となった19「38年、友人である尾崎秀実の勧めにより、設立されたばかりの国策研究機関・東亜研究所(東研)に入所した。第二次世界大戦開始後にはジャワに派遣され、軍政監部の下で行われた占領地調査の中心となった。
戦後は<、>・・・中央労働学園大学教授、法政大学社会学部教授、日本精神医療センター脳研究所長<、を務める傍ら、>・・・民主主義科学者協会(民科)の幹事を務めた。また、ソヴエト条件反射選書の翻訳刊行に携わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%98%E6%A4%8D%E7%A7%80%E8%87%A3
⇒私は、杉山元らが、ゾルゲ/尾崎を泳がしていたと見てきた(コラム#省略)ところ、その理由について、この際、もう少し踏み込みますが、日本が北進して、独伊と共に、ソ連を全面的に占領できたとしても、パルチザン対策のために相当の陸軍兵力をソ連内に残さざるを得ず、兵力不足で南進作戦を展開することなど不可能になってしまい、アジア解放が達成できなくなるので、ゾルゲ/尾崎の日本国内における南進論への誘導活動を黙認する一方で、ドイツがソ連に勝利して全土を占領するような事態もまた(敵の敵というだけでナチスドイツがソ連同様日本にとって極めて好ましからざる国である以上)絶対避けなければならないので、ソ連が背後の憂いなくドイツと戦えるように、ゾルゲ/尾崎がソ連に日本の北進がない旨を伝えることもまた黙認した、と、見ている次第です。
つまり、結果としてですが、ゾルゲ/尾崎は、日ソの二重スパイとして、汚辱の死を遂げた、ということになりそうです。(太田)
<また、日本の>南進が決定された情報を入手した毛沢東は飛び上がって喜んだという。」(127~130)
⇒毛沢東は、杉山らと全く同じ意味で喜んだわけです。
ところで、毛がこの情報をいかなるルートで入手したかが気になりますね。
蒋介石政権には在華ソビエト軍事顧問団が派遣されていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E8%8F%AF%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E9%A1%A7%E5%95%8F%E5%9B%A3
ので、この顧問団を通じて同政権が知り、それを同政権内の中国共産党連絡要員が毛沢東に伝えたと考えるのが自然ですが、杉山元らから入手していたとしても私は驚きません。(太田)
(続く)