太田述正コラム#13478(2023.5.12)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その20)>(2023.8.7公開)

 「・・・[近衛総理秘書官の牛場友彦(注39)は、]『・・・当時、陸軍および海軍の一部の空気として、北進か南進か、少なくともそのいずれかは到底抑制することができない勢いであった。近衛さんがそのいずれも断乎として抑止したら、結局ご自身が殺されるか、総理をやめさせられるかの他はなく、・・・だから、近衛さんとしてなし得る最善のことはせめてこの両者を同時にやらせないことであった・・・』・・・と語った<という。>

 (注39)1901~1993年。東大、オックスフォード大卒。「近衛文麿の側近時代、尾崎秀実を近衛文麿に紹介し、彼が内閣嘱託となるきっかけをつくった。また、岸道三とともに近衛内閣の「朝食会(朝飯会)」を組織した。・・・
 実弟<に、>外務事務次官、対外経済担当大臣(福田赳夫改造内閣)を務めた牛場信彦<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E5%A0%B4%E5%8F%8B%E5%BD%A6

 近衛<は、>南仏印進駐決定が<北進に比べれば>それほど重大な結果をもたらすとは予想していなかった<のだ。>
 <その>ことを示すエピソードとして・・・幣原喜重郎<が>・・・「・・・あなたに断言します。これは大きな戦争になります』と・・・<(外相時代の>松岡<同様、)>・・・私がいうと、<近衛>公は『そんなことになりますか』と目を白黒させる。・・・<私は、>『・・・ひとたび兵隊が仏印に行けば、次には蘭領印度へ進入することになります。英領マレーにも進入することになります……絶対にお止めするしかありません』……と断言し<た。>・・・』・・・

⇒外交官、外相上がりの幣原のウィキペディアは、この幣原の「予言が的中した」と書いています
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
が、それが、単なるまぐれ当たりであることはもはや説明を要しますまい。
 ここから分かることは、(これも前から申し上げてきていることですが、)当時の外務省もまた、あろうことか、「英米一体論」なる妄説を信じ込んでいた、ということです。(太田)

 蒋介石の次男の・・・蔣緯国<(注40)は、>・・・『抗日戦争八年』・・・<の中>で、「勝てるか勝てないか別にしても、ドイツと日本が連合してソ連を攻めれば、日本は北進策を採った以上南進策はできず、南進しなければ強大な海軍戦力は健在であったろう。第二次大戦がどう終結したにしても、日本は強大な海軍力を保有し続けていたはずで、うまく行けば戦争から名誉ある撤退ができたのであり、少なくとも原爆攻撃にあって不名誉な無条件降伏をするような結果にはならなかったと断言できる」と回想<してい>る。」(134~136)

 (注40)1946~1997年。蒋介石の次男(養子)。父は戴季陶、母は重松金子。「東呉大学経済学科に学び、中独合作と呼ばれる中国国民党とナチス党率いるドイツ国の提携が模索されるなか、1936年にドイツへ赴く。その翌年にはドイツ国防軍に入隊、ドイツ陸軍ミュンヘン士官学校に入学している。
 同士官学校卒業後もドイツ軍の軍務に就き続け、第98山岳猟兵連隊で山岳戦の教程を修了して、山岳猟兵の証であるエーデルヴァイス章を授与された。第二次世界大戦初期、ドイツ陸軍士官候補生として装甲部隊に配属され、オーストリア併合に従軍した。ポーランド侵攻にもオブザーバーとして従軍する予定であったが、その途上で立ち寄った在ベルリン中国大使館経由で受けた指示によって、<米>国で軍事教育を続けることになった。<米国>ではいったん陸軍航空隊士官学校へ入校したが、ドイツでの経験が考慮されたことにより、フォートノックスの戦車部隊へ移され、同地ではドイツ軍の戦術等について講義を行っている。その後日独伊三国同盟構想が強まると中国に帰国、その後は中華民国国民革命軍に入隊し、日中戦争及び国共内戦に参加している。国民革命軍では主に装甲部隊を指揮し、1944年に少佐、1945年に28歳で中佐となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E7%B7%AF%E5%9B%BD
 戴季陶(たいきとう。1891~1949年)。日大中退。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B4%E5%AD%A3%E9%99%B6

⇒原文では、「蒋偉国」となっていましたが、校正ミス、ということにしておいてあげましょう。
 で、この蒋緯国の指摘は、(杉山構想を聞かされていないことから来る限界はさておき、それなりに)正鵠を射ていますが、それは、恐らくは、「父」である蒋介石の当時の認識であって、まさに、杉山らもそう認識していて、繰り返しますが、それでは、アジア解放が(、そして恐らくは蒋介石政権打倒も、)できないので、帝国海軍や外務省の「英米一体論」なる妄説を利用して、対英のみ南進すら回避し、対米英開戦と南進、を断行した、というわけです。
 近衛などは論外ですが、当時の帝国海軍や外務省の国際情勢分析能力は、帝国陸軍・・杉山元ら・・に及ばなかったどころか、阿Q達の野合集団でしかなかったところの、蒋介石政権、にすら及ばないという情けない有様だったわけです。(太田)

(続く)