太田述正コラム#13482(2023.5.14)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その22)>(2023.8.9公開)

「・・・派兵決定声明の翌日<の1937年>7月12日、石原莞爾参謀本部第一部長から風見書記官長に電話があった。
 石原は、解決のために近衛が自ら南京に乗り込んで蒋介石とひざ詰めの談判で片づけるのがよいと依頼した。・・・

⇒満州事変の成功体験等から石原が自信過剰になってお行儀が悪くなっていたのでしょうが、そんなことは、参謀本部の所管ではない上、参謀本部内で次長や総長の了解を得た話ですらなかったはずであり、風見がそんな話を首相の近衛に繋ぎ、近衛もまともに対応したのはおかしいと言うべきでしょう。(太田)

 7月15日、外務省河相達夫<(注41)>情報部長<まで>が来訪し、石原の依頼だとして返答を求めた・・・。

 (注41)1889~1966年。一高、東大法卒「北海道炭礦汽船入社。翌年・・・外務省入省。バンクーバー総領事代理、青島在勤外務書記官、情報一課長、関東庁官房外事課長、米国大使館一等書記官、中国公使館一等書記官、広東、上海各総領事を歴任。1937年外務省情報部長となり、同年10月の米ルーズベルト大統領のシカゴ演説(隔離演説)に反駁談話を発表、「持てる国」中国に対し「持たざる国」日本が不公平是正の戦いを挑むことの正当性を主張し注目された。情報部長時代に外務省情報部の整理、統合を行う。この他、児玉誉士夫を見出し中国に行かせた。児玉は河相を恩師であり父と子のような間柄であったと述べている。1939年、二世教育機関「敝之館」を設立。1941年1月オーストラリア公使となり1943年退官したが、1945年情報局総裁兼外務次官、終戦連絡中央事務局次長として終戦処理にたずさわる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E7%9B%B8%E9%81%94%E5%A4%AB

⇒(ここも、原文は「河相」ではなく「河合」になっていました!)
 外務省もどうかしていますが、けれんみたっぷりの河相だからこその動きだったのかもしれません。(太田)

 <近衛とも相談済みであったところ、>翌16日、風見は石原に、理由は言わず、首相の訪中は見合せるとのみ手紙を送った。・・・
 近衛は<自分は行かないことにし、>陸海両相の了承を得た上、広田を招いて要請したが、広田も「南京に出かけるのもいいが、その前に陸軍の方がもっとしっかりしてくれなければ」と述懐し、言を左右にして応じなかった。

⇒前の前の首相である外相の廣田に対しては、彼が首相になる前から杉山構想が開示されていた、と私は見ており(コラム#省略)、彼は自分の判断で和平に繋がる可能性が皆無ではないところの、この話、を断ったのでしょう。
 もちろん、誰が和平を試みようとしても、杉山元・・当時は陸相・・によってつぶされていたでしょうが・・。(太田)

 風見は石原に南京行の見合わせを電話でも話した。
 石原はしきりに理由を聞いてきたが、陸軍の統制力のなさを口にすることは控えた。
 風見は、後日、近衛が南京に行かなかったのは風見が細工したように石原がいいふらした、と言う。・・・
 自分や広田の訪中を断念した近衛は、特使を送ることを考えた。
 ・・・秋山定輔・・・に相談して・・・最初に考えたのが宮崎龍介<(前出)>だった。・・・
 7月19日、秋山<が>宮崎<にこの話を伝えたところ、宮崎は、>・・・駐日中国大使館に・・・武官・・・を訪ね、蒋介石との連絡方を依頼した。
 蒋介石は上海まで来れば会うといい、乗船名を知らせるようにと返電がきた。
 しかしこの電報は軍部に傍受されていた。

⇒帝国陸軍は優秀でした!(太田)

 宮崎の派遣を決めた近衛は杉山陸相の了解をとった。
 7月23日、宮崎は東京を出発した。
 翌24日朝、宮崎は京都駅で秋山と電話で話した。

⇒宮崎も秋山も、とりわけ、スパイ疑惑で脛に疵を持つ秋山(コラム#12948)が、電話が盗聴される可能性を考えなかったのは迂闊過ぎます。(太田)

 秋山から、陸軍の後宮軍務局長が宮崎の訪中のことで近衛に会いに来たが近衛は面会を謝絶したので気を付けろ、と言われた。
 捕まると覚悟した宮崎は暗号帳を破り捨てて神戸港に向かったが待合室で私服の憲兵に捉えられた。
 秋山も27日、東京で逮捕された。
 後日、近衛は、陸軍が宮崎派遣を了解しながら妨害したことで、杉山陸相を詰問した。」(140~142)

⇒どうして、杉山が最初から宮崎の派遣を拒否しなかったかですが、近衛には杉山構想を開示しないと決めていた以上は、拒否理由が説明できなかったからではないでしょうか。
 その代わり、近衛による和平工作はことごとく邪魔をして潰すことにした、と。
 近衛は、宮崎が逮捕された時、首相たる自分がコケにされたのですから、「詰問」で済まさず、杉山を非難して首相を辞す、と杉山に伝えて全面対決すべきだったのに、どうしてそうしなかったのでしょうか?
 恐らく、ですが、事実上の首相任免権者である西園寺に話したところ、それくらいのことで内閣を投げ出すな、ときつく申し渡されたのではないでしょうか。(太田)

(続く)