太田述正コラム#13486(2023.5.16)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その24)>(2023.8.11公開)

 「それでも近衛はあきらめなかった。
 8月に入ってから、近衛は、元老松方正義の三男で衆議院議員の松方幸次郎<(注45)>(※松方コレクションで有名)や頭山満を派遣しようと考えた。・・・

 (注45)1866~1950年。東京大学予備門卒で東大に入学するも学位授与式をボイコットし、米ラトガーズ大入学の後、エール大に転学、法学士、松方首相秘書官等を経て神戸の政財界の巨頭となる。
 衆議院議員を1936年(昭和11年)から連続3期務め<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E5%B9%B8%E6%AC%A1%E9%83%8E

⇒近衛は積み木崩しで遊ぶ子供、的な精神障害を患っていたのではないか、と言いたくなってしまいます。(太田)

 しかし、この試みは、9日の大山事件発生による第二次上海事変の勃発により霧消した。
 そして、事変は泥沼化し、上海占領、南京攻略を経て、翌年1月の「国民政府を対手とせず」の第一次近衛声明<(前出)>に至った。・・・
 天皇は「私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を常に云つてゐた」が、近衛がとっていた行動もそのように理解できるだろう。

⇒著者は、この大部な近衛本を書く気になる前から、近衛を買いかぶり続けたとみえますが、一体どうしてそんなに近衛に入れ込んでしまったのか、不思議でなりません。(太田)

 ・・・戦線は拡大し<、>徐州作戦<が>4月から開始されていた。
 他方、2月に、国民政府外交部亜州司日本科長の董道寧<(注46)>が極秘で来日し、参謀本部の影佐禎昭<(注47)>と会見した。

 (注46)とうどうねい(1902~?年)。「浙江省出身。・・・横浜でそだち,京都帝大を卒業。帰国後,国民政府外交部日本科長となり,高宗武のもとで,日中和平工作にあたる。昭和14年汪兆銘の訪日に同行した。日中戦争中に病死したという。」
https://kotobank.jp/word/%E8%91%A3%E9%81%93%E5%AF%A7-1093788
 (注47)当時、亜州司長は高宗武、で、影佐は参謀本部第8(謀略)課長。
https://core.ac.uk/reader/71790530
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

 これが、蒋介石との直接交渉は断念して汪兆銘を引き出すことになった影佐工作の始まりだった。・・・
 <他方、>近衛が取りかかったのは、宇垣一成の外相登用だった。
 宇垣は、日中戦争の早期和平が必要だと考えていた。
 そのため、近衛は広田に代えて宇垣を外相に登用しようと考えた。・・・
 宇垣は、蒋介石については、・・・その実力は認めつつ、批判的評価もしていた。
 近衛の宇垣に対する期待にもかかわらず、蒋介石の下野問題にこだわった宇垣の・・大局を誤りし愛国者<という>・・蒋介石観が、宇垣工作失敗の一因ともなった。・・・

⇒宇垣は、間違った蒋介石観を抱いていた・・蒋介石は愛国者どころか阿Q的人物で腐敗していた!・・という「大局を誤りし」不勉強者だったわけですから、最初から和平工作には不失格者だったということになります。
 杉山元らはもとより、当時の陸軍上層部の大宗の蒋介石認識は的確なものであったはずですが、陸軍を離れて久しい宇垣がこの認識を共有できていなかったということになるところ、私見では1931年の3月事件の時に日和ったことで杉山元らに見放されて陸軍から追放された宇垣(コラム#省略)に認識の共有を求めても詮無いことでしょう。(太田)

 <また、>近衛は、煮え湯を飲まされた杉山陸相に代えて板垣征四郎を陸相に登用<することにした>。・・・
 近衛は、杉山に辞任を承諾させるため、近衛を熱心に支持していた閑院宮参謀総長に密かに手を回し、杉山に引導を渡させるのに成功した。」(145~149)

⇒閑院宮に対しては、貞明皇后/西園寺公望から、杉山元を「熱心に支持」するよう、かねてから申し渡されていたはずです(コラム#省略)し、当時の教育総監は杉山と陸大同期の西尾寿造であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
以上、著者に貞明皇后と杉山の因縁についての私のような「知識」はないとしても、杉山本人さえ陸相続投の意思があれば、少なくとも西尾が杉山に味方し、三長官会議で杉山の続投を決めることなど容易かったはずだ、と、どうして著者は考えないのでしょうか。
 そうではなく、これも前から私が指摘していることですが、杉山は、北支那方面軍司令官になって、中共との事実上の共存状態の確立を北支で万全なものにする必要があったので、渡りに船、と、予定よりも若干辞任の時期を前倒しした、に過ぎないのです。
 (杉山が、陸相を辞任して軍事参議官になったのが1938年6月3日で北支那方面軍司令官になったのは同年12月9日です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%94%AF%E9%82%A3%E6%96%B9%E9%9D%A2%E8%BB%8D
 中共「担当」の隷下第1軍司令官に(自分の下での前次官で自分の股肱之臣とも言うべき)梅津美治郎を1938年5月30日に送り込んであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E8%BB%8D_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
その首尾を現地で確認さえすればよいという立場であったことから、急いで赴任する必要はなかった、と、想像されます。)

(続く)