太田述正コラム#13490(2023.5.18)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その26)>(2023.8.13公開)

「・・・重慶側も宇垣の就任に好感をもち、就任直後、旧知の張群<(注49)>行政院副委員長から、就任祝いと宇垣の経綸に期待するとの電報が中国大使館経由で届けられた。・・・

 (注49)ちょうぐん(1889~1990年)。「四川省生まれ。辛亥革命のとき上海で陳其美(ちんきび)の下で働き、日本の陸軍士官学校に留学、のち馮玉祥(ふうぎょくしょう)や蒋介石の下で政治活動に従事、・・・知日派とされた。1933年湖北省主席、1936年外交部長、1938年行政院副院長、戦後の1947~1948年には行政院長として国共調停に努力した。台湾に逃れてからは1960年から総統府秘書長を務めた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%B5%E7%BE%A4-97760

 宇垣工作は、・・・孔祥煕<(注50)>を相手とし、その秘書の喬舗三<(不詳)>を窓口として開始された。

 (注50)こうしょうき(1880~1967年)。キリスト教に入信し、米オベリン大卒、エール大修士(鉱物学)。「南京国民政府時期に財政部長、行政院長を務めた。妻は宋靄齢。宋靄齢を通じて宋子文や蔣介石とは姻戚関係にあり、陳果夫を含めた4人は四大家族と呼ばれた。
 長期にわたって国民政府の財政部門を担当したが、宋家と結託していわゆる孔宋集団を形成し、腐敗政権や民衆の財産を集め私腹を肥やす者たちの象徴と言われた。国共内戦の末期には、中国国民党や孔宋家の一族に対して「刮民党」(刮は、略奪する、巻き上げるの意味)と呼ぶことが流行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E7%A5%A5%E7%86%99

 日本側では、香港総領事の中村豊一<(注51)>が窓口となった。

 (注51)外務官僚。福州総領事、在フィンランド特命全権大使、サンフランシスコ領事、特別調達庁。
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/term/00003527
 犬養毅の女婿が芳沢健吉、芳沢健吉の女婿が中村豊一。
https://www.alterna.co.jp/28453/2/
 緒方貞子は中村豊一の娘。
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000064564

 日中の和平に種々関与していた大陸浪人の菅野長友も・・・工作にかかわった。・・・
 <菅野は、>玄洋社社員。・・・中国に渡って・・・広東・香港で新聞通信員となり、・・・孫文と知り合<い、>宮崎滔天らとともに・・・辛亥革命をアジア主義の立場から支援した。・・・

 朝日新聞の緒方竹虎は、編輯局顧問の神尾茂<(注52)>を現地に派遣し、また、菅野が情報を送るために朝日新聞の飛行機を使わせるなど強く支援した。

(注52)1883~1946年。早大政経卒、東亜同文書院卒。「大阪朝日新聞社南京通信員となり、上海特派員、北京特派員を歴任した。さらに大阪朝日新聞社の支那部長、東亜部長、編集局顧問、論説委員を務めた。また陸軍梅機関(影佐禎昭機関)に配属され、大使館嘱託も兼ねた。
 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B0%BE%E8%8C%82

 <結局、>宇垣は、・・・蒋介石下野を前提条件にせず、講和後に蒋介石の自発的下野でもよいとした。・・・
 中国側<は>孔祥煕と宇垣の直接交渉に応じるとの意向が報告され、宇垣は同意した。
 これは五相会議でも了解され、9月23日、近衛からその旨や陛下も内諾された旨・・・<宇垣工作を>背後で支援し<てい>た・・・小川平吉<(注53)>・・・に伝えられ<た。>・・・

 (注53)1870~1942年。「帝国大学法科大学卒業後弁護士となる。近衛篤麿のもとに東亜同文会、国民同盟会、対露同志会に参加、対露強硬論を唱え、また日露戦争講和のポーツマス条約に反対して日比谷焼打事件(1905)に連座。1903年(明治36)以来、衆議院議員当選10回。立憲政友会に所属し、1915~1916年(大正4~5)原敬総裁のもとで幹事長を務めた。国粋主義的思想の持ち主で、1925年加藤高明内閣の司法大臣として治安維持法制定に参画、ついで1927年(昭和2)田中義一内閣の鉄道大臣となる。満蒙問題では強硬論を唱え、憲政会、立憲民政党内閣の幣原外交路線と対立した。のち五私鉄疑獄事件に連座して入獄。出獄後、1937年日中戦争が起こると近衛文麿首相に進言して対中国和平工作に奔走したが成功しなかった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%90%89-17717
 「宮沢喜一は孫にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%90%89

 ところが、宇垣は突然辞表を提出し、9月30日辞任に至った。
 中国側の態度は硬化し、宇垣・孔祥煕工作は終了した。・・・
 当時、陸軍中央は、影佐による汪兆銘工作を方針としていた上、宇垣を徹底的に嫌っていたため、宇垣の和平工作には終始非協力で、妨害しようとしていた。
 辞任の直接的原因は、宇垣が外務省の権限を大幅に縮小する興亜院設置問題について反対したの<に>、近衛が梯子を外してこれに乗ろうとしたことにあった。」(154~155)

⇒こんなことを言ってしまうと身も蓋もありませんが、有象無象というか魑魅魍魎というか、やたら多くの人々が、次々と(客観的には絶対に成就する筈がないところの、)蒋介石政権との和平工作に関わっているな、という印象です。
 その中でも、利益相反的であるところの、日本型ジャーナリスト(コラム#13489)や名声を博すことが自己目的化したと思しき日本人、が散見されるのには、とりわけ眉を顰めざるをえません。(太田)

(続く)