太田述正コラム#13492(2023.5.19)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その27)>(2023.8.14公開)

「・・・小野寺信中佐は、1938年10月、参謀本部ロシア課から上海に派遣され、アスターハウス<ホテル>を拠点に「小野寺機関」を設け、中国通の吉田東祐<(注54)>を右腕として、重慶との和平工作を始めていた。

 (注54)「本名・鹿島宗二郎。明治37年、東京に生まれる。昭和2年、商大(現・一橋大)卒。同11年、渡華。上海申報社論説委員長。近衛公の密使として抗日地区に入り、和平交渉にあたる。戦後、愛知大学理事、国士舘大学教授を歴任。」
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E5%93%A1%E3%81%AE%E9%97%98%E3%81%84-%E5%85%89%E4%BA%BA%E7%A4%BENF%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%9D%B1%E7%A5%90/dp/476983246X

 当時、参謀本部の支那課では、蒋介石に見切りをつけ、汪兆銘に親日政府を樹立させる汪兆銘工作を進めており、これが軍部や政府の主流だった。
 しかし、ソ連や共産党の支配の増大を恐れていたロシア課は、蒋介石と和平すべきだと考えており、両者の路線は対立していた。

⇒そういう説明はおかしいのであって、どちらも、当時は次長が仕切っていたところの、参謀本部において、次長の多田駿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%B8%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E9%A7%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%89%84%E8%94%B5
が、陸軍において諜報活動を主管する陸軍省・・板垣征四郎陸相/東條次官・・の参謀本部への指示の下で多田が支那課と諜報課に諜報活動たる汪兆銘工作をやらせる一方で、同じ多田が参謀本部独自にでは本来行えないはずの諜報活動を陸軍省に諮らずにロシア課にやらせていた、ということであって、「両者<(両課)>の路線<が>対立」していたわけではないからです。(太田)

 この小野寺工作に、近衛の長男文隆もかかわっていた・・・。・・・
 1939年1月の近衛内閣総辞職後、間もなく、近衛は文隆に上海の東亜同文書院の「学生主事」として勤務を命じた。・・・
 <出発時の文麿の指示に従い、>文隆が小野寺に電話すると、「・・・実は電話をお待ちしていました」とすぐ話が通じ、・・・<、会って文隆が、>・・・「どうしても蒋介石との和平のルートを探って日中戦争を終結させたい……いったいどうすれば良いか教えてくださいませんか」と言うと、しばらく考え込んだ小野寺はテンピンルー(鄭蘋茹)<(注55)>のルートを示唆した。
 しかしすでに文隆は彼女と知り合っていた。・・・

 (注55)原文は簡体字表示のようだが、鄭蘋如となっていた。1914~1940年。「1914年に、法政大学に留学中の中国人男性と、茨城県真壁出身の日本人女性の間に生まれた女性で、東京牛込区の生まれだ。」
https://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/cat32161049/index.html
 「父・鄭越原は孫文を慕って中国同盟会に参加した事があ<る>・・・。1932年~1934年にかけて上海の明光中学(民光中学とする説もある)高等部に在籍。後に自身の運命を決定づける丁黙邨は同校の代表理事であった時期があり、このときに二人は出会っていた可能性がある。
 美貌でしなやかな肢体を持っていたと言われ、上海のグラビア雑誌『良友画報』の表紙を飾った事もあった。やがて自身の容貌を活かして、抗日運動に身を投じ、その過程で近衛文隆(近衛文麿元首相の長男)と知り合った。しかし、1939年6月4日に近衛暗殺未遂事件があり、危険を察知した大日本帝国陸軍幹部は近衛を日本に送還(その後、満州へ召集令状が出された)し、二人の関係は終わった。
 その後、重慶国民政府の特務機関・中央統計局から重大な命令が下る。それは、汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者となっていた丁黙邨を暗殺せよというものであった。鄭は丁に近づき、1939年12月21日、丁の暗殺計画を実行するも失敗に終わった。そして特工総部に出頭し、そこで構成員の林之江らに捕らえられ、監禁された。
 1940年2月の春節前、林らによって上海郊外の滬西区中山路に連行され、銃殺された。
 没後、中央統計局の後身である中華民国法務部調査局より殉職烈士に認定され、また彼女の悲劇と数々のロマンスは、多くの小説・映画のモデルとなっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E8%98%8B%E8%8C%B9

小野寺機関による文隆の行動は、上海憲兵隊特高課が調査しており、林秀澄課長は、・・・小野寺機関で・・・活動していた・・・早水親重<(不詳)>・・・を呼び出して厳しく追及した。・・・

⇒林秀澄については、ネット上で断片的な情報しか得られませんでしたが、「台湾初空襲の緊張もようやくとけた2月末のことだった。林秀澄は辞令を受けた。「1938年3月1日付けをもって、中支那派遣軍 憲兵隊付き少佐に任ず」 中支那派遣軍憲兵隊とは上海市域を担当する憲兵隊である。彼は3年の台湾勤務を経て、ようやく東京に帰れるものとばかり思っていた。それが上海だ。抗日の巣窟、事変の混乱もさめやらぬ魔都上海である。林は頭がくらくらしてきた。しかし気を取り直して、上海での防諜と、抗日テロ対策に専念することを誓うのだった。その日も上海では、鄭蘋如(テンピンルー)が日本のラジオ局、「大上海放送局」のアナウンサーとして、可憐な声を電波に乗せていた。同時に、ピンルーは抗日地下組織の運用メンバーにもなっていた。林秀澄が鄭蘋如の名を知るのに、それからさほど時間はかからなかった。」
https://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/4-8e7e.html
や、「敗戦当時・・・辻政信・・・大佐は第三十九軍作戦主任参謀としてバンコクにあったが、その時に先輩に当たる林秀澄大佐と次のような会話を交わした。これは田々宮氏が林大佐から聞いた秘話。辻大佐「日本の降伏後、東亜の盟主は誰ですか?」
林大佐「蒋介石だよ。蒋介石の反共作戦を援助すべきだ。ときに辻君。重慶に行かんか」
辻大佐「行きます」」
http://kajikablog.jugem.jp/?eid=1004680
からすると、林は支那に余り関心がなく、実際、支那のことが何も分からないまま終始した人物だったようですね。
 そんな人物でも、上司筋がしっかりしておれば、働きどころはある、というわけです。(太田)

 この文隆の活動は陸軍中央や政府を著しく刺激し、文隆の帰国が画策された。
 特高課長の訪問を受けた同文書院の大内暢三<(注56)>学長は、文隆に「いかに近衛公の御曹司といえども、国策を妨害し敵機関に手を貸す、または女スパイと情を通じるとなれば、お名前に疵~」などと言い、文隆を当惑させた。」(157~159、161)

 (注56)おおうちちょうぞう(1874~1944年)。東京専門学校(現在の早大)を経て、米コロンビア大法学修士、近衛篤麿の知遇を得、東亜同文会創設に協力、1908年衆議院議員当選、政界引退後東亜同文書院院長代理、院長、初代学長。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%9A%A2%E4%B8%89 

⇒小野寺は、文隆と会う前に、既に、テンピンルーに話をしてあったところ、文隆の上海到着を国民党のスパイ網を通じて直ちに把握して彼女の方から文隆に接近し、文隆を「陥落」済みだった、ということでしょう。 
 文隆は防諜のイロハのイも教えられないまま文麿は文隆を「敵地」に送り込んだわけです。
 文麿自身が防諜常識を身につけていなかったことは、彼自身が周りに尾崎秀実等のスパイを跳梁させていたことからも明らかであって、文隆への教育などできる筈がなかったとはいえ・・。
 同じ東亜同文会会員ながら、大内暢三の方は文麿と較べれば遥かにまともでした。
 と、考えてくると、そもそも、テンピンルーを通じて文隆に工作をさせようとした小野寺信だって、褒められたものではない、ということになりそうです。
 この小野寺については、また、別の機会に正面から取り上げてみたいと思います。(太田)

(続く)