太田述正コラム#13494(2023.5.20)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その28)>(2023.8.15公開)

 「・・・文隆の相談役でもあった中山優は「・・・毎日の高石真五郎<(注56)>氏に出会ったら『<駐中>英国大使のカー<(注57)>が、誰か日本人の有力者に重慶を見せて日本人の認識を改めたい。安全は英国国旗で保証するから行かぬか、というが僕にはその勇気がない。文隆さんが行かぬか』と勧められた。・・・

 (注56)1878~1967年。慶大法卒、大阪毎日新聞社入社、「1938年(昭和13年)には会長兼主筆に就任し、社長の奥村信太郎と共に二頭体制を築く」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%9F%B3%E7%9C%9F%E4%BA%94%E9%83%8E
 (注57)Archibald Clark Kerr, 1st Baron Inverchapel(1882~1951年)。’he developed a close relationship with the Nationalist Chinese leader Chiang Kai-Shek and spent most of his posting explaining why Britain could not offer him any substantive aid in his struggle against the Japanese invaders.
 He argued for British aid to China based upon humanitarian concerns, the preservation of British economic influence and the principle of national self-determination. Despite the lack of aid from Britain, he impressed the Chinese with his interest in Confucian philosophy and with his determination. ・・・
 He served as Ambassador to the Soviet Union between 1942 and 1946 and to the United States between 1946 and 1948.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Clark_Kerr,_1st_Baron_Inverchapel

 あのとき、もし<その気になった>文隆君の主張に従って2人で重慶に赴いたら、日本の今日の運命と異なったものが出来たかも知れぬ」と回想している・・・。・・・

⇒カーの、その後の、駐ソ、駐米、という大使としてのキャリアから判断すると、彼は、当時の英国で最も有能な外交官であると目されていたと見てよく、腐敗した蒋介石政権が支那統一など果たせるわけがないことを見通した上で、英国による同政権へのリップサービスにはこれ努めつつ、英国による同政権に対する軍事的経済的援助は最低限に留めると共に、駐日英国大使のクレイギー(Sir Robert Leslie Craigie)(コラム#群省略)との意見交換等を通じ、帝国陸軍(の杉山元ら)の南進による在アジア英国領の解放意図も察知していて、それを妨害するための諜報工作として、日支戦争の早期和平実現を仲介する可能性を模索していた、と、考えられます。
 高石、中山、文隆、そして文麿、らは、そんなカーにとってはカモネギ、ならまだいいのですが、ヒマつぶしにはもってこいのからかい遊びの対象だったのではないでしょうか。(太田)

 1940年7月22日、第二次近衛内閣<が>組織<された。>・・・
 近衛は、日米諒解案交渉に心血を注いだ。・・・
 この交渉のきっかけは、1940年11月、日本で布教活動締め付けへの対策のためアメリカから来日した、カトリックのビショップのウォルシュと、神父のドラウトの2人が、日米関係の改善と開戦防止の運動を熱心に始めた<(注58)>ことだった。

 (注58)「両師は元ブラジル大使沢田節蔵と、近衛文麿首相に近い産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事井川忠雄に宛てた紹介状をそれぞれ持参しており、彼らの紹介で各方面の要人と面談した(その中には松岡洋右外相や武藤章軍務局長ら日本の高官も含まれていた)。両師の目的は日米関係改善にあり、その背後にはフランクリン・<ロ>ーズベルト大統領の側近であるフランク・C・ウォーカー郵政長官がいた。・・・
 ウォルシュ、ドラウト、そしてウォーカーはアイルランド系カトリックという繋がりがあった。ウォーカーは<ロ>ーズベルトの選挙事務長を勤め、全米カトリック教会財務委員としてカトリック票を左右できたため、<ロ>ーズベルトに対して影響力があった。また、ウォルシュとドラウトは日本のカトリック関係者とも面会しており(沢田もカトリックである)、彼らの思想の根底には反共、即ちソ連への対抗意識があった、との指摘がある。・・・
 ウォルシュ、ドラウトと武藤の会見を実現させたのは井川と岩畔であった。また、井川の渡米費用を斡旋したのは岩畔であり、その活動を保証したのは武藤であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BA%A4%E6%B8%89

 ウォルシュらは、松岡外相や武藤章軍務局長ら政府・軍部の有力者にも会い、産業組合中央金庫の理事井川忠雄<(注59)>が日本側で交渉の窓口になることになった。

 (注59)1893~1947年。東大法卒、大蔵省入省。「ウォルシュ、ドラウト両神父が井川のもとを訪れ、日米国交の調整問題について意見交換を行ったことを契機に、陸軍省の岩畔豪雄大佐とともに日米交渉を進め「日米諒解案」を作成するが、蚊帳の外に置かれていた松岡洋右外相の逆鱗に触れ、事実上握り潰された。その後1942年に共栄火災海上保険社長に就任する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%9B%84

 井川は近衛とは一高時代の同窓生で、近衛のブレーンだった昭和研究会の創立者の一人でもあった。
 ウォルシュらは、翌1941年1月帰国してルーズベルト大統領やハル長官らと会談し、日米交渉の重要性を説き、ルーズベルトはこれに心を動かされた。」(162~163)

⇒ウォーカーと井川との繋がりを解明できませんでした・・沢田と井川の間に繋がりがあったのかも・・が、この話に岩畔が積極的に関わったのは、この話にローズベルト政権の閣僚が関与していても、肝心のローズベルトやハルに日米交渉を成就させる意志などないことを、東條陸相を含むところの、杉山元(当時参謀総長)ら、が見破っていて、だからこそ、この非公式交渉に帝国陸軍が熱心に関わったとの印象を日米両国政府に与えることによって、(和平志向の)昭和天皇を主として誑かす効果を狙ったのではないか、と、私は見るに至っています。
 杉山構想がついに開示されることがなかったところの、武藤章、には本当のことは明かされていなかった、とも。(太田) 

(続く)