太田述正コラム#13496(2023.5.21)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その29)>(2023.8.16公開)
「・・・<1941年>8月7日ころから、ルーズベルトとチャーチルとの大西洋会談が始まり、チャーチルはルーズベルトに対し、日本への強い警告を要請した。
8月17日、大西洋会談から帰国したルーズベルトは野村大使を呼び、日本のこれ以上の南進を強く警告するとともに、近衛と会談をしてもよく、ハワイよりもアラスカのジュノアで10月中旬頃がよかろうなどと示唆した。
ルーズベルトとチャーチルはこの会談で大西洋憲章に調印していた。
⇒杉山元らは、ブロック経済打破という、彼らの戦争目的の一つが、対米英開戦以前に早くも達成された(コラム#省略)ことに、さぞ苦笑したことでしょう。(太田)
これがきっかけとなって8月下旬から外務当局間の折衝が開始された。
しかし、・・・保坂正康・・・は、「アメリカは硬軟使い分けで時間稼ぎをした。『日本をしばらくあやしておかねばならない、その時間稼ぎが必要だ』というのがルーズベルトとチャーチルの結論だった」とする。・・・
<また、>鳥居民<(注60)>・・・は、「ハルは……アメリカ海軍、陸軍、英国、オーストラリアから、交渉を決裂させるな、時間稼ぎを続けてくれと言われ、ハルは見事にこれを果たしていた」とする。
(注60)1929~2013年。「経歴不詳。・・・歴史作家・評論家。・・・ライフワークである『昭和二十年』シリーズは、敗戦の年(1945年)一年間の社会の動きを重層的に描くドキュメントであり、2012年(平成24年)までに13巻が刊行されたが、未完に終わった。
2006年(平成18年)に、第12回「横浜文学賞」を受賞。2012年(平成24年)に、第3回いける本大賞を受賞(特別賞)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%B0%91
<更に、>高木惣吉<は、>アメリカは北部仏印進駐と日独伊三国軍事同盟調印直後に、日米戦を決意して驚異的な一大軍拡整備を始めたとの情報をキャッチしており「井川が来訪した頃はアメリカの開戦決意はますま高く、外交交渉での打開は困難であろうと判断していた<。>・・・」(168~169)
⇒保坂、鳥居、高木、が、そのような判断に至った時期は様々ながら、米国が、8月17日のローズベルト発言のわずか3カ月半後の11月26日に、日本が最後通告と受け止めるのが確実であるところの、ハル・ノートを付きつけ、翌「27日、ルーズベルト大統領は、現地指揮官に「最後的警戒命令」を発出するというスティムソンの提議に同意し<、>まずフィリピン、ハワイ等の陸軍司令官に「対日交渉<が>、日本が再び会談継続を提案する可能性だけを残して、すべての実質的目的を終えた<現在、>日本の将来の行動は予断できないが敵対行動<が>いつおこるかわからない」との警戒命令が出され、次いで太平洋艦隊及びアジア艦隊に対しては「日米交渉はすでに終わり、日本の侵略的行動がここ数日以内に予想される」との「戦争警告」が発せられた。さらに28日の軍事会議では、日本軍の南進について議論があり、特に日本軍がクラ地峡に進出すれば<英国>は戦うであろうこと、もし<英国>が戦えば<米国>も参戦せねばなるまいということで意見が一致した。<そして、>29日、ハルは駐米<英国>大使のハリファックス卿に次のように告げた。「日米関係の外交部門は終わった。今や問題は陸海軍の手に移った。私の意見では、今や全面的に更新された日本の征服計画は、多分のるかそるかの賭けだろうから、極度の大胆さと冒険を必要とするに違いない。…彼らは独ソ戦の成り行きにはたいして注意を払わずに、死に物狂いに企図を進めるだろう」。<この、米国による>暫定協定案の放棄は中国以外の関係国を驚かせ、27日には駐米<英国>大使のハリファックス卿がウェルズ国務次官に抗議した。しかし、ウェルズが日本軍の大部隊が南下している情報を伝えると、ハリファックス卿も納得したという。また、29日にはカセイ駐米オーストラリア公使が日米間の調停を申し出たが、ハルは外交上の段階は過ぎたと拒否している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88
という史実に照らせば、全員が間違っている、或いは、間違っていた、と断定していいでしょう。
但し、若干の注釈が必要です。
米行政府に関しては、クラ地峡は英領マラヤからかなり離れた場所(タイ領)であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E5%9C%B0%E5%B3%A1
そこに日本軍部隊が展開したとしても、英国が先制攻撃を仕掛けることはなかったでしょうから、米行政府の判断ミスっぽいですし、ドイツが英国を攻撃してから久しかったけれど米国は対独参戦できていなかったのですから、日本がアジアで英国領を攻撃したとしても米国の対日参戦などできるわけがなく、「参戦せねばならない」のは、米行政府としての決意表明に過ぎない、ということが第一点ですし、ハリファックスの抗議は、一日も早い米国の対日開戦を切望していたところの、英国政府、の立場に反する個人的な動きとしか考えられないのであって、それは、彼が元々外相時代にドイツに対しても宥和的であったことに鑑み、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89_(%E5%88%9D%E4%BB%A3%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E4%BC%AF%E7%88%B5)
日本に対しても宥和的だったと考えられ、かつ、元インド総督としての経験もあった(上掲)ことから、日本との戦争が、日本の南進による、(インドを含む)英国のアジア植民地群の過早な喪失をもたらしかねないことを懸念したからではないか、というのが第二点です。
(カセイによる調停の申し出も、ハリファックスが手を回した可能性が大だと思います。)(太田)
(続く)