太田述正コラム#13498(2023.5.22)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その30)>(2023.8.17公開)

 「・・・9月6日の御前会議では、交渉が成立しなければ日米開戦も辞さずという決定がなされた。・・・
 10月12日、荻外荘で、近衛と陸海外三相と最後の会談が長時間なされ、海相は総理一任とした。
 しかし東條は「駐兵問題だけは陸軍の生命であって絶対に譲れない」と譲らず、4時間にわたる会議は決裂した。
 近衛はもはや政権を維持できないとして内閣総辞職した・・・。・・・
 しかし、東條は総理就任後、天皇の開戦避止の強い思いを受け、・・・開戦を避ける努力を始めた<のだが、思うようにいかず、>・・・わずか一か月ほど<後、>・・・「近衛には悪いことをした。陸相として力の足りなかったのは反省している。首相になってみてそれがよくわかったよ」と・・・秘書に語った」。
 <また、>12月6日、2日後の宣戦詔書を連絡会議で採択した夜、東條は首相官邸別館の執務室で、布団に正座し、号泣したという・・・。

⇒どちらも、昭和天皇向けの、同天皇の東條への信頼を確実なものにするための、東條による(本心とは真逆の)渾身の演技でしょう。
 杉山元らが、どうしてこの時期に東條を陸相、首相に就けたのか、納得させられます。(太田)

 <時計の針を戻すが、>10月14日、開戦を阻止しようとしていた武藤陸軍軍務局長は、富田健治内閣書記官長を訪ね、「海軍が、この際戦争を欲しないと公式に陸軍に言ってくれれば、若い連中も抑え易い。海軍がそういう風に言ってくれるように仕向けて貰えないか」と頼んだ。
 富田がそれを<岡敬純>海軍軍務局長に伝えると、岡は「海軍としては戦争を欲しないなどと正式には言えない。首相の裁断に一任というのが精一杯のことである」と応じなかった・・・。

⇒「岡局長<は>開戦に最も反対した一人である<というのに、>・・・<同>中将は結婚されず、子供がいなかったため責任を自ら被った結果、戦後に書かれた著書では悪く書かれている場合が多<く、>海軍で<は、>・・・永野修身軍令部総長<以外>・・・でA級戦犯に問われたのは、・・・岡局長・・・だけであった。」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/3250/navy-1.pdf
という見方もあるところ、全般的にA級戦犯が陸軍に偏り過ぎていることはさておき、私は、岡敬純(軍務局長:1940年10月15日~1944年8月1日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81
には杉山構想が開示されていたと見ている(コラム#13381等)こともあり、彼は、同じく杉山構想を開示されていたと見ているところの、及川古志郎、嶋田繁太郎両海相(コラム#省略)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
と共に、実は対米英開戦に向けて邁進したと見ており、だからこそ、岡は、武藤/富田の要請を拒否した、とも見ている次第です。
 なお、武藤章がこのような機微な話を直接岡にしなかった、というか、できなかった、のは、1939年9月30日から陸軍軍務局長をしていて、翌年の10月に海軍軍務局長に就任した岡と、当時、既に1年以上カウンターパート関係にあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
というのに、彼がサシで話が出来る関係を構築していなかったことを意味するのであって、武藤の後任の佐藤賢了(軍務局長:1942年4月20日~)(上掲)が岡と親交関係を構築した(コラム#13381)こととは大違いであり、職務怠慢であったと言われても仕方ないでしょう。(太田)

 新名丈夫<(注61)(コラム#12978)>によれば、満州事変の時、ロンドン軍縮条約の調印問題の時、三国同盟締結の時、また日米開戦の時、海軍が終始態度が曖昧だったり、強硬論を打ったり、逃げを打ったりしたのは、東郷平八郎元帥が、下から焚き付けられて海軍中央に強硬論をねじ込んだことに大きな原因があったという。・・・

 (注61)原文は新名武夫となっていた。
 1906~1981年。慶大法卒、東京日日新聞(現、毎日新聞)に入社。
 「太平洋戦争中、黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった新名は、1944年(昭和19年)2月23日付東京日日新聞(現・毎日新聞)一面に、「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋飛行機だ」という記事を執筆、これに東條英機首相が反発し二等兵として陸軍に懲罰召集を受けることになった。
 新名は大正年間に徴兵検査をうけたが弱視のため、兵役免除で、まだ当時は大正時代に徴兵検査を受けた世代は1人も召集されてはいなかった。新名が黒潮会の主任記者であった経過から、海軍が「大正の老兵をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍に抗議し、陸軍は大正時代に徴兵検査を受けた者から250人を丸亀連隊(第11師団歩兵第12連隊)に召集して辻褄を合わせた。
 新名自身は日中戦争時は陸軍の従軍記者であった経歴と海軍の庇護により連隊内で特別待遇を受け、3ヶ月で召集解除になった。しかし、上述の丸亀連隊の250人は送られた硫黄島で全員が玉砕・戦死することになった。陸軍は新名を再召集しようとしたが海軍が先に国民徴用令により保護下に置いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%90%8D%E4%B8%88%E5%A4%AB

 <実際、>戦後<、>・・・及川古志郎がこの経緯を語<っているとも。>」(169~171)

⇒新名が、こんな神話(コラム#省略)を持ち出したのは、海軍への恩義から筆を曲げているとまでは言いたくありませんが、記者としての取材不足、洞察力不足である、と批判されるべきでしょう。(太田)

(続く)