太田述正コラム#13514(2023.5.30)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その38)>(2023.8.25公開)
「・・・近衛の上奏のとき、天皇は、「軍部は、米国は我国体の変革迄も考え居る様観測し居るが、其の点は如何」と御下問した。
これは、9日に梅津参謀総長が、奏上で、アメリカは日本の国体を破壊し、焦土にしなければ飽き足らぬので絶対にアメリカとの講和は考えられず、それに反してソ連は日本に好意を有しているので、ソビエトの後援の下に徹底して対米抗戦を続けなければならぬと述べたからだった。
しかし、近衛は、「アメリカと講和する以外に方法はない~~無条件降伏してもアメリカは日本の国体を変革して皇室までなくすようなことはしないと思う」と答えた。
この点でも近衛の状況分析は軍部よりもはるかに的確だった。・・・
⇒このくだり、典拠が付されていませんが、仮に全て事実だとして、梅津を含む杉山元らにとって、「国体護持」も「ソ連は日本に好意」も、終戦時期の決定について、陸軍が(天皇を含めて)コントロールできるようにするための方便だった、と、解するべきなのです。(太田)
近衛の行動や政治活動に一貫して流れていたのは「先手論」と「毒を以て毒を制す」という思考様式だった。
右であれ左であれ、自分が一定の立場に立ち、旗幟を鮮明にして政権を担おうとすれば、常に反対思想の勢力から批判されて対立し、政治対決や闘争を余儀なくされる。
だから、そのような批判や対立を招く前に「先手」を打って、反対勢力を自己の勢力ないし影響下に取り込んでおこう、というのが「先手論」だ。
毒を以て毒を制す、というのは、「毒」である勢力と直接対決すれば自分がやられてしまうので、自分のうちに「毒」の勢力を抱えることで「毒」からの自分に対する攻撃を防ごうとするものだ。
これも「先手論」の一つの表れといえよう。・・・
<例えば、>戸部良一は「<盧溝橋事件の後、近衛首相は、>何故、あえて暴支膺懲熱を煽るような行動に出たのか。……軍人の先手を打つ、という彼の『先手論』である。つまり、陸軍の大勢が派兵に固まった以上、軍をリードするためには、むしろここでその主張を採用し、さらにその一歩先を行くことが得策だとみなされた。そうすれば軍の信頼を集め、やがては軍のコントロールも可能になると考えられたのであろう・・・」として<いる。>・・・
<当時、外務省>東亜局長だった石射猪太郎は、・・・<1937年>7月11日朝、・・・広田外相に内地師団を含む動員派遣案に反対するよう進言したが、広田はあっさりと動員案に同意したため石射は失望した。
⇒石射は、官邸に赴いて近衛を論うヒマがあった(下出)のなら、先輩であり、かつ、上司である廣田とどうして徹底的に議論をしようとしなかったのでしょうか。
得心がいかない考えの上司の下で、爾後、仕事などやっておられないはずなのに・・。
また、どうして、当時の次官の堀内健介
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
の所に石射は本件に関して相談に赴いていないのでしょうか。
仮に赴いていた場合、どうして、そのことについて、彼は何も書いていないのでしょうか。(太田)
石射が夜に官邸に行くとお祭り騒ぎのようににぎわっていた。
石射は、「政府自ら気勢をあげて事件拡大の方向へ滑り出さんとする気配なのだ。事件があるごとに政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのがいままでの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだといわれた。冗談じゃない。野獣に生肉を投じたのだ」と慨嘆した。」(226、233、238)
⇒どうやら、発端は石射の回顧録での記述だったようですが、これを「先手論」と名付けたのは、一体誰なのでしょうか。
この近衛の「先手論」について、ネット上で少々当たってみたところ、牧野愛博(注77)による「盧溝橋事件当時、近衛の取った政策は「近衛の先手論」と呼ばれた。近衛は「軍人に先手を打って強硬な政策を唱えれば、陸軍の信頼を得ることができる。そうすれば、政治の主導権は政治家の手に戻り、陸軍を抑えることができる」と考えていたとされる。」
https://globe.asahi.com/article/14496531
や、筒井清忠<(コラム#10037)の>『天皇・コロナ・ポピュリズム』中でも、「近衛文麿と宮中グループが貴族的「先手論」と「革新的平等主義論」に流されつつ昭和戦前史を形作っていったとの指摘」がなされている
https://www.tokyo-np.co.jp/article/182847
のを見つけましたが、名付け親のつきとめはできませんでした。
(注77)「[1965年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒業<。>]大阪商船三井船舶(現・商船三井)勤務を経て1991年、朝日新聞入社。政治部、全米民主主義基金(NED)客員研究員、ソウル支局長、編集委員などを経て2021年4月より・・・朝日新聞外交専門記者、広島大学客員教授」(上掲)
https://bunshun.jp/list/author/5dce8b857765611ab6980200 ([]内)
いずれにせよ、近衛の無知・無能さや脇の甘さや乗せられ易さ、を、「先手論」を口当たりの良いキャッチコピー的に用いることによって糊塗し免罪しようとしているかのような著者の筆致には抵抗感を覚えざるをえません。(太田)
(続く)