太田述正コラム#13516(2023.5.31)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その39)>(2023.8.26公開)
「風見の書記官長起用も、近衛の「先手論」だった。・・・
第一次近衛内閣が成立すると、・・・近衛・・・は当時全く面識の無かった・・・風見章・・・を内閣書記官長に抜擢した。
それは、貴族である近衛が、貧しい農民や労働者層も含めて広く国民的支持を受けるために効果的な「サプライズ人事」だった。・・・
近衛が初めて風見を知ったのは、1930年に森恪<(コラム#11061)>を通じてだという。・・・
後藤隆之助<(コラム#10379)>によると、組閣の半年頃前、・・・書記官長には誰がいいかという話になり、近衛から「風見というのは面白いやつだ。どうだろうか」という意見が出たという。
そこで、後藤は、風見を昭和研究会の外交委員会に入れ、委員長に据えていた。
後藤隆之助や近衛の貢献役だった志賀直方<(注78)>も風見を勧めたという。・・・
(注78)1879~917年。「志賀直哉の祖父志賀直道の兄・志賀直員(正斎)の娘夫婦の子として生まれる。幼いときに両親が病死したため、直道の養子となる。直哉の4歳上の又従兄になるが戸籍上は叔父となる。小説『和解』等に「鎌倉の叔父」としてしばしば登場する。
直哉の学習院入学と同時に直方も学習院に編入。中等科6年の時、家に忘れた靴を取りに帰ろうとして門衛を突き飛ばし、退院処分となるが、院長の近衛篤麿の配慮で1年後に復学。この恩義からのちに篤麿の息子近衛文麿の後見役として尽力する。
日露戦争に従軍し、奉天会戦で右目を失明し退役。荒木貞夫陸軍大将と親しく、その他にも真崎甚三郎、小畑敏四郎、柳川平助ら皇道派と密接な関係となる。
鎌倉の建長寺に参禅し、それが縁で後藤隆之助と知り合い、親交を深め後援者となる。
大正末年から大日本連合青年団の理事となる。1930年のロンドン海軍軍縮会議を日本の危機と考え、貴族院の井上清純、井田磐楠両議員、小林順一郎砲兵大佐らと三六クラブ」を結成し、近衛文麿の擁立運動を展開する。
後藤隆之助の後援者として昭和研究会の設立に協力。のち後藤と対立した。
1937年、念願の第一次近衛内閣の成立から5か月後、狭心症の発作を起こし急死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E7%9B%B4%E6%96%B9
工藤美代子<(注79)>によれば、<1937年>6月4日の組閣当日、帰宅した近衛が岩淵辰雄<(コラム#128343)>に密かに調べさせておいた風見の調査報告書を読み、風見が、岡谷製糸での女工スト事件<(注80)>に同情し争議支援の先頭に立ってストを大いに鼓舞したことや「マルクスについて」の連載をしていたことを知り、近衛はすっかり眠気を覚まされ、マルクスの共産党宣言を絶賛する男が自分の内閣の書記官長に納まってしまったことに衝撃を覚え、口外できない極秘扱いとする腹を決めた、という・・・・。・・・
(注79)1950年~。「父の意向でチェコ・プラハのカレル大学に入学するが中退。・・・1991年、『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞受賞。・・・新しい歴史教科書をつくる会副会長や国家基本問題研究所評議員を務めていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E7%BE%8E%E4%BB%A3%E5%AD%90
(注80)「「製糸王国」といわれた長野県,その中心地である岡谷を舞台とした山一林組争議。1927年8月末から約20日間にわたり,1000人を超える製糸労働者が参加した・・・日本労働運動の「原点」<。>」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784760107117
⇒森も後藤も志賀も無責任極まるけれど、全く「面識の無かった」人物を自分の内閣で女房役として登用するなんて、近衛はどうしようもない大馬鹿者です。
最低でも、近衛は、岩淵なんぞではなく、内務省(警察)に風見の身辺調査をさせるべきでした。(太田)
酒井三郎<(注81)>は、後藤隆之助の側近として昭和研究会に参加し、昭和研究会の創設以来の事務運営を担<った>。」(239~241)
(注81)1907~1993年。「1930年に青山学院英文科卒業後、大日本青年団本部編集部に入る。後に後藤隆之助と共に青年団を退団し、側近として昭和研究会・・・[文化部地方班長]。のち大政翼賛会・・・に所属。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E4%B8%89%E9%83%8E
https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/sakaisaburou.html ([]内)
(続く)