太田述正コラム#13520(2023.6.2)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その41)>(2023.8.28公開)
「・・・杉森久英<(注83)は>、「いろんな人が近衛を訪ねて、いろんな進言をする。……近衛はあらゆる意見に耳を傾ける。自分自身の意見はめったに言わず、丁寧に、親切に、相手の意見を聞く。ときどき、要所要所で質問をする。それは的確に問題の中心に触れていて、彼が論者の言うところを、完全に理解していることを物語っている。相手は近衛が自分にまったく賛成であると思って、満足して帰る。……対立するいくつもの意見のどれにも傾かず、どれにも囚われないという特技を持っていた。それは摂関家の筆頭として、永年日本の政治を動かしてきた近衛家の血の中にあるものだった」としている・・・。・・・
(注83)すぎもりひさひで(1912~1997年)。四高、東大文(国文)。「石川県七尾市の公務員の家庭に生まれ、金沢市で育つ。・・・
教員を退職後、中央公論社編集部に入社。編集者という職に自信を失い退職後、大政翼賛会文化部、日本図書館協会などを経て、戦後河出書房に入り『文藝』の編集に従事。1947年『文藝』編集長に就任。
1953年デイヴィッド・ガーネットやフランツ・カフカの影響が色濃い短篇小説『猿』が芥川賞の候補になったのを機に作家専業となる。伝記小説の分野で活動し、1962年には同郷の作家島田清次郎の伝記小説『天才と狂人の間』で直木賞受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%A3%AE%E4%B9%85%E8%8B%B1
有馬頼義<(注84)>は、近衛をこう評している。
(注84)ありまよりちか(1918~1980年)。「旧・筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。・・・伯爵有馬頼寧の三男・・・。母貞子は北白川宮能久親王の第2王女。
頼寧の母・寛子(頼義の祖母)は岩倉具視の五女。頼義の妹の澄子は足利惇氏の妻。姉の正子は亀井茲建の妻であり、衆議院議員亀井久興は甥にあたる。・・・
学習院初等科卒業。旧制成蹊高等学校尋常科に入学<するも、>・・・1937年(昭和12年)に短篇集『崩壊』を上梓<し、>その原稿料を受け取ったことが問題とされて放校処分を受ける。徴兵延期の特権を失い、1940年(昭和15年)に兵役に就いて満洲に渡る。
3年間の軍隊生活を経て帰国後、同盟通信社社会部記者となり、周囲の反対を押し切って、1944年(昭和19年)に芸者・・・と結婚<し、>家を出<、>・・・アンドレ・ジイド『蕩児の帰宅』に感化され「本気で小説を書きはじめ<、>・・・1954年<、>・・・『終身未決囚』<で>・・・直木賞受賞。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E7%BE%A9
頼義の有馬氏は、摂津有馬氏(赤松有馬氏)で、村上源氏。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%B0%8F
岩倉家や足利氏についての説明は不要だろう。
「亀井氏は・・・宇多源氏の佐々木氏の流れを汲むとされるが、信憑性に乏しく、穂積姓藤白鈴木氏流の亀井重清の流れとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E6%B0%8F
「現代史もしくは昭和史を書く場合、一番書きにくい人物は近衛文麿だということが定説になっている。わかったようでいて、近衛の本当の腹の中は、今でも確かには理解されていない……
しかし、仮に近衛を最も単純な言葉で表現するならば、彼は、誰がかぶっても一応よく似合う帽子であった……あらゆる人が近衛という帽子を、かぶりたがり、その帽子はまるで魔法の帽子で、それをかぶれば何でも自分の思う通りになるのだ、とさえ思われた……誰にも似合う帽子、そしていろんな人の頭にかぶせられたことによって、ついに、近衛自身にとって、最も不幸な結果を生じた」・・・。
私はこの有馬の評価が最も的をついた近衛像であると思う。」(265~266)
⇒杉森も有馬も小説家なので、売れる小説を書く能力があれば他人の小説の評価なんか当然できるけれどその逆・・他人の小説を評価する能力があれば売れる小説が書ける・・は必ずしも真でないことくらい分かっているはずなのに、政治家に関しては、その彼らにとっての常識を忘れてしまっているのは一体どうしてなのでしょうね。
近衛は、政治的言論の評価はできるけれど政治家としては無能、というだけのことなのに、杉森が「<近衛>が論者の言うところを、完全に理解している」という平均以上の有権者程度の近衛の能力に感心したり、有馬が「近衛の本当の腹の中は・・・理解されていない」などと近衛が腹の中に何もない・・政治家として無能である・・とは夢にも思っていなかった様子である、のは、彼らが・・彼らも、いや、華麗な閨閥を持つ伯爵家嫡出子を含む彼らでさえも・・近衛家ブランドに目を眩まされていた、ということでしょうか。
但し、有馬の近衛評の引用後段は言い得て妙です。(太田)
(続く)