太田述正コラム#13530(2023.6.7)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その46)>(2023.9.2公開)
「頭山は西郷隆盛を崇敬して<いたが、>・・・ノーマンは・・・西郷・・・に対してすら、・・・口汚く罵<り、>・・・単に大陸への膨張主義者、反乱軍の参謀総長、という目でしか見ていない。・・・
ノーマンは、坂本龍馬と勝海舟については高く評価している。
しかし、ノーマンは、坂本龍馬が西郷の頭脳には決して感心せず、「西郷を評して『馬鹿は馬鹿だが大馬鹿』だと言った」と、西郷批判の根拠に挙げている。
しかし、坂本のこの言葉は「西郷という人物は、小さくたたけば小さく響き、大きくたたけば大きく響く、釣鐘のような男だ。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口なら途方もなく大きな利口だろう」というものであり、西郷の測りがたい度量と智謀の大きさを褒めたものだった。
⇒坂本龍馬は西郷を褒めているわけではなく、西郷は便利屋として極めて優秀な人物だ、と言っているに過ぎません。
西郷は、島津斉彬のような偉人が使えば(斉彬自身は死んでもその遺訓に従い)倒幕維新を成し遂げられるけれど、旧薩摩藩の叛徒達に担ぎ上げられれば犬死してしまう、といった含意で・・。
私も同感です。
ですから、ノーマンの西郷評は当たっていると言ってよいでしょう。(太田)
勝海舟も・・・「・・・俺だってことに処して、多少の陰謀を用いないこともないが、西郷の至誠は俺をしてあい欺くことができなかった。・・・」と称賛した。
⇒私は、かねてより、(以下の4人の中で、少なくとも西郷と大久保については島津斉彬も同じような評価をしていたと思われますが、)西郷隆盛も大久保利通も、そして、坂本龍馬も勝海舟も、ことごとく高い評価はしてはいない(コラム#省略)のですが、この、引用されている挿話自体が、西郷と勝に関してそのことを裏付けています。
というのも、この挿話は、西郷が、戊辰戦争を起こすために江戸薩摩藩邸を江戸市中取締の庄内藩新徴組らに襲撃、焼討するように仕向けて死者75人が生じた事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E9%82%B8%E3%81%AE%E7%84%BC%E8%A8%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
であるところ、こういう多少どころではない大陰謀をやってのけた人物であったこと、と、そのことを知っていたはずの勝が、自分が西郷との会談で江戸城無血開城に同意したとされていることへの旧幕臣達の相当部分が抱いていた憤りを緩和するためかこんな風に西郷を持ち上げる嘘を平気で吐く人物であったこと、とを示すものだからです。(太田)
ノーマンには、批判論のストーリーの中に、何らかのエピソードを本来の文脈から外れてつまみ食い的に引用することが他にも少なからず見受けられる。
⇒勝の西郷評は明らかに嘘で、ノーマンの(勝評はともかく)西郷評は当たっているのに、著者はその他の実例を一つも挙げていない以上、彼によるこのような指摘は成り立ちません。(太田)
ノーマンの誤った批判は頭山や玄洋社に対して更に激しくなる。
「玄洋社は、排外愛国主義と軍事侵略の神秘主義的不合理の誘因」「ドイツ国民感情を利用したナチスの手口を考えさせる」「ヒトラーが軍、官僚、大企業の主要指導者を計画に引き入れたのと変わらない」「恐怖手段、政治的威嚇、秘密の陰謀」「頭山は無頼の政治的ボス」「狡猾な陰謀家という点で西郷そっくり」「若いころは無気力な青年」「武士の放蕩と暴行の巣窟だった茶屋や遊郭を好んだ」「知的好奇心や学問への欲求はなく、粗野猥雑で『最上のナチ型』と驚くほど類似」「金に汚く、どんな金でも集め、豪華な自宅を作った」など、知的研究者とは思えないほどの誹謗の言葉が続く。
⇒既に披露済みの頭山評を行った丸山眞男とノーマンは一卵性双生児だったのか、と言いたくなりますね。
恐らく、ノーマンは、「親しかった」丸山(注90)からその頭山評を聞き、それを自分の言葉で記したのでしょう。
(注90)「・丸山がノーマンと知り合ったのは1941年、ノーマンが30歳そこそこの時であった。
・4年ぶりにノーマンが丸山を訪ねてきたのは、東大図書館所蔵の安藤昌益の『自然真営道』の写真撮影への協力を依頼するためであった。
・『忘れられた思想家』の著述は、戦前、戦中ではなく、戦後の短期間で成し遂げられた。
・丸山がノーマンと最後に会ったのは、1955年であった。・・・
・<丸山はドイツのクラシック音楽の心酔者であった
https://www.twcu.ac.jp/main/research/maruyama-center/publication/r08ji80000002sb4-att/09_maruyamabunkogakufu.pdf
ところ、>ノーマンはバロック音楽を愛した。
「・・・あるとき、ノーマンにさそわれて、渡辺一夫さんと中野好夫さんと私(丸山)で、ノーマンの車で箱根に出掛けたことがありました。夜遅くまで駄弁っていて、ぼくらはこっちの座敷で寝て、ノーマンはちょっとはなれた洋間に寝た。・・・」<(丸山)>
https://www.amazon.co.jp/portal/customer-reviews/srp/-/R7YDYIWA1EXCA/?_encoding=UTF8&ASIN=4006032757
なお、丸山、渡辺、中野、は、この箱根行等が、ノーマンによるところの、占領政策の一環としての、日本の知識人達に対する洗脳・情宣活動だった、という認識など皆無だったのでしょうね。(太田)
このようなノーマンは、頭山が新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻らの協力の下に、イギリスから追われていたインド独立の志士ラス・ビハリ・ボースをかくまったこと、朝鮮の志士金玉均を支援したこと、孫文や蒋介石の辛亥革命を支援したことについても、その目的は、日本による将来の傀儡化の利益のためだったとした。
のみならず、これらの志士たちについても「頭山は……無節操な冒険者、安価な出世主義者、政治的山師など自国でも無用な、歓迎されない連中ばかりを掴んだ」などと、極めて次元の低い評価をした。」(279~281)
⇒もちろん、意識の上ではまだ大英帝国の一員であったと思われるノーマンは、(あのチャンドラ・ボースとは別人ながら、同じく)武装闘争によるインド独立を目指したビハリ・ボース
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9
は少なくとも敵視していたであろうことから、その他の人々も十羽一からげにした、とも考えられますし、ひょっとしたら、これらも、(頭山評価の部分も含めて)ノーマンが丸山から聞かされた話の受け売りだった可能性もあります。
私自身は、孫文と蒋介石は評価していないけれど、ビハリ・ボースや金玉均は評価しているとはいえ、ノーマンによる彼らの評価も、全く理解できないわけではありません。(太田)
(続く)