太田述正コラム#13534(2023.6.9)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その48)>(2023.9.4公開)

 「・・・アンコン号での近衛に対する尋問<の際、>・・・近衛は、なぜ、天皇への上奏で強く和平を主張したことを語らなかったのだろうか。
 もしそれを強調すれば、なぜ天皇はそれを受け止めて和平のために積極的に乗り出さなかったのか、という天皇の責任に波及することを恐れたのだろうか。
 あるいは、近衛は、日本が共産化し、国体が破壊されることを最も恐れ、和平を上奏したが、尋問者の顔ぶれや、都留重人もなぜかその場に同席していたことなどから、尋問・追及の背後に共産主義者たちの画策を感じ取ったのだろうか。
 それとも、近衛はこれらを誠実に弁明したが、尋問者側が意図的にそれを記録に残さなかったのだろうか。

⇒尋問者としての占領軍/ノーマンの関心は、もっぱら、近衛の、第一次政権の時の日支戦争開始責任、と、第二/三次政権の時の事実上の対米英戦開始責任、の追及にあったと思われ、聞かれなかったことを近衛が勝手に話す機会など与えられなかった、というだけのことでしょう。(太田)

 富田健治・・・は、近衛は、天皇の前では、普通人のように挨拶し、他の上奏者がほとんど腰をかけない椅子に座り、足を無造作に組んで上奏するので、侍従から「少しお行儀が悪すぎるように思うので、何とか御注意なされる途はないものかどうか」と相談を受けたこともあったという・・・。
 しかし、近衛の天皇・皇室への崇敬は表面的、外形的なものではなく、近衛家の歴史を背負った全身全霊のものだった。・・・
 また、近衛の天皇と皇室の崇敬は、昭和天皇に対する個人的なものではなかった。・・・
 近衛が服毒自殺を遂げたことについて、天皇は「近衛は弱いね」と言い、また、近衛の日米諒解案交渉などについての手記を読んだあと、「どうも近衛は自分に都合のよいことを言ってるね」と言ったことはよく知られている。・・・
 戦時中、木戸幸一(侯爵)が内大臣を務めていた期間、木戸が壁となって近衛を始めとして天皇に上奏をなどをしようとする人々を厳しくコントロールしており、近衛といえども天皇に随時会うことは許されていなかった。・・・
 <そのため、>近衛が戦争回避や和平工作のため腐心した努力は、木戸が壁となり、天皇には十分伝わっていなかったように思われる。」(284~286、290~291)

⇒著者には、昭和天皇が、近衛について、「(昭和24年11月30日<に>)「毒ヲ以テ毒ヲ制スル主義デ色々ナ一寸(ちょっと)変リモノヲ好ク癖ノアツタ/信頼出来ル長所ハアツタガ政治的識見ヲ欠イタ」、それに(昭和27年4月5日<に>)「意思が弱いし、悪まれたくないし(にく)聞き上手で誰れにもかつがれる」などと人物評を述べた<ことや、>・・・昭和27年5月28日<に、>・・・愚痴みたいだがと前置きしたうえで、「私と近衛とが意見が一致してたやうに世の中は見てるようだが、これは事実相違だ。/近衛ハ公卿華族であり又心安く話も出来た為めか/誤解してるものがあると思ふ」と述べたと記されています。そのうえで、昭和天皇は「近衛ハきゝ上手又話し上手、演説も一寸要点をいつて中々うまいし、人気はあるし中々偉い点もあつたやうだ。例へば自分の誤りだと思ふ事ハ餘(あま)り拘泥しないスツト変へるといふ様な点ハいろいろ長所あつたが餘(あま)りニ人気を気ニして、弱くて、どうも私ハあまり同一意見の事はなかつた」と述べた<こと、更には、>・・・内大臣を務めた木戸幸一について近衛と反対で事務的だったとしたうえで、「私自身も事務的だから…、私は木戸の方がよくあつた。あれなら話がよく出来る。近衛はよく話すけれどもあてニならず、いつの間ニか抜けていふし、人はいかもの食ひで一寸(ちょっと)変つたやうな人が好きで、之を重く用ふるが、又直(じ)きにその考へも変る。政事家(せいじか)的といふのか知らんが事務的ではない。東條ハ之ニ反して事務的であつたそして相当な点強かつた。強かつた為に部下からきらはれ始めた」と述べた」
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-person-01.html
ことにも言及して欲しかったですね。
 ここでも、著者がなにゆえ、対米英戦開始から後のことばかりに拘泥するのか、不思議でなりません。
 というのも、天皇もまた、占領軍/ノーマンと同じく、日支戦争や対米英戦争開始そのものに係る近衛の責任・・天皇の立場からすれば、それぞれの時における近衛による自身への補佐のあり方・・に最大の関心があったはずだからです。
 「平和、和平志向」の昭和天皇が、「昭和26年10月30日<に>、・・・「東条ハ私の心持を全然知らぬでもないと思ふがとても鈴木貫太郎のやうに本当ニ私の気持を知つてない。終戦ハ鈴木、米内<、>木戸、それから陸相の阿南、と皆私の気持をよく理解してゝくれて其コムビ(コンビ)がよかつた。東条と木戸わるくハなかつたがとても鈴木の時のやうではない。私の気持を本統(ほんとう)ニ理解してその上コムビ(コンビ)がよい時ニ始めて事ハ成功する」と語った<り>・・・、戦争について振り返る中で・・・繰り返し「近衛と東条との両長所が一人ニなればと思ふ」、「近衛ト東條<(ママ)>トノ性格ヲ一人ニテ兼備スルモノハナキカ」となどと<この、対米英戦開戦に責任のある二人を、一括りにして(太田)>述べていた」(上掲)ことが、その証左です。
 そもそも、昭和天皇は、「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。・・・東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中〻良い処があつた。・・・東条は平沼に云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない。只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。」、と、東條を擁護する発言を何度かしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
のに対し、近衛については擁護する発言は皆無です。
 東條が近衛の後の首相で、前者は自分に対して対米英戦をほぼ不可避な状況をもたらし、後者は対米英戦・・自分自身と天皇制を危殆に瀕せしめた!・・を自分に開始させたという点で、昭和天皇がその生涯において最も熟視させられたほぼ同時期・・この時期においてはどちらも自由に天皇に会えた・・の首相達であったことに鑑みれば、昭和天皇のこの二人への評価の懸隔は相当程度客観性があるものとして尊重されるべきでしょう。(太田)

(続く)