太田述正コラム#13536(2023.6.10)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その49)>(2023.9.5公開)
「・・・近衛の娘野口昭子<(注94)>は、松本重治に、こう語っている・・・。
(注94)1916~2004年。「公爵近衛文麿の長女。母は毛利高範の娘・千代子。東京生まれ。一度は公爵島津忠秀に嫁して修久ら二男一女を儲けたが、戦後の混乱期に忠秀のもとを去って出入りの整体師野口晴哉と駆け落ちし、「昭和のノラ事件」と呼ばれて話題になった。1945年12月に島津忠秀と離縁した。
野口晴哉と結婚してからは、晴哉の著作を発行する全生社の社長に就任し、出版事業を通じて野口整体の普及に貢献した。
夫に先立たれてからは、整体協会の会長として整体法の普及に携わった。著作においては、夫である晴哉を指して「先生」と呼んでいることが特徴的である。
晴哉との間に四男がおり、長男の野口裕哉は『日刊マニラ新聞』社主、次男の野口裕之は社団法人整体協会内の身体教育研究所所長、三男の野口裕介は社団法人整体協会の本部講師を務める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E6%98%AD%E5%AD%90
女子学習院後期卒。
https://www.sony-ef.or.jp/about/pdf/taidan51.pdf
「父はね、もう一つ、やっぱり公家なのよ。公家っていうのはさ、平氏と源氏のいろんな戦乱の中で、京都っていうところに帝を守ってひっそり暮らし、生き延びてきたわけでしょう。そういったような歴史っていうか、そういう血があるのよね。……そういった中で生き延びていくっていう知恵をもっているわけ。父は最後の公家だったと思うのね。……それが分かってくださらないと、父のことは分かんないと思う」
また、・・・近衛<は>、高松宮らを接遇した虎山荘での密談のとき、姪に当たる酒井伯爵夫人美意子<(注95)>らに対し、次のような女性言葉で語った・・・。
(注95)1926~1999年。「侯爵・前田利為の長女。母は雅楽頭系酒井家宗家20代当主・酒井忠興の次女菊子。同家22代当主・酒井忠元の妻。・・・女子学習院卒業・・・1973年(昭和48年)、ハクビ総合学院学長となる。
1977年(昭和52年)からは、百合姿きもの学院と京都きもの学院の学長を兼任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E7%BE%8E%E6%84%8F%E5%AD%90
「親しめども信ぜず、愛すれども溺れず、……これが関白というものの信条だったのよ、これで近衛家は700年におよぶ武家政治を切り抜けてきたのよ」・・・
富田健治は「(近衛に)卑しい所は全然なかった。が、時折憎らしいというか、冷酷というか、ずるいというか、他人のことなど少しも関知しない。人の迷惑知らぬ顔というところがたしかにあった。「お公家さんのずるさ」の遺伝性を感じさせられた。しかし、不思議にどんな眼に逢わされても憎めない。またいくら憎んでみても、ご本人はケロッとして何もかも忘れているのだから話にならぬ、というものだった」と回想している・・・。・・・
⇒こういった近衛文麿評をする人々が軒並みおかしいのは、(天皇家を含む)公家が生き延びる知恵を持っていたとしながら、いくら知恵があろうと、生き延びさせようとしてくれた人々が常にいなければ生き延びるのは不可能であったはずであるところ、どうして、いつの時代にも生き延びさせようとしてくれた人々がいたのか、それは単に文化財保護的な気持ちからではなかったはずだ、それどころか、文麿のような人物ばかりだったらおよそ文化財として保護する気にすらならなかったはずではないか、と思わないことです。
先回りして、途中を端折って結論的私見を申し上げれば、近衛家における最後の公家は近衛篤麿であり、日本における最後の公家は九条家出身の貞明皇后でしょうね。
どうして終わってしまったのかについては、改めていつか・・。(太田)
近衛自身は「最後の公家」であった。
しかし近衛家の人々がすべてそうであったわけではない。
愛息の文隆<も>・・・弟の秀麿<も、>・・・<そのまた弟の>水谷川忠麿<も>・・・「長袖者流」ではなかった。
<また、>秀麿の孫の水谷川優子<(注96)>は、国際的チェリストとして活躍しながら、難民救済活動や少年院、ホスピス、障害者福祉施設などの訪問コンサートの社会活動をライフワークとして続けている。」(292~293)
(注96)「作曲家水谷川忠俊の次女として・・・生まれる。指揮者で日本の交響楽団の祖であった祖父・近衛秀麿の遺志により6歳からチェロを始める。19歳でアレクサンダー・シュナイダーによりニューヨーク・ストリング・セミナーに招聘され、カーネギー・ホール、ワシントンセンターなどで演奏。過去にザルツブルク室内楽弦楽団、ザルツブルク・ゾリスデン首席奏者を務めた。独奏及び室内楽で<欧州>各地の音楽祭へ出演する傍ら、日本国内でも2003年より本格的に公演活動を開始。カザルスホール、王子ホール、サントリーホール、紀尾井ホールなどでのリサイタルや欧州からの共演者と室内楽公演を行なっている。少年院、障害者福祉施設、ホスピスなどでの演奏会における福祉活動が評価され、2002年より財団法人倶進会からの助成を受けている。現在は日本と欧州に拠点を持つ。・・・
姉はヴァイオリニストの水谷川陽子。夫はフィンランド人でヴァイオリニストのマーク・ゴトーニ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%84%AA%E5%AD%90
「水谷川忠俊<(みやがわただとし。1935年~)は、>・・・日本の作曲家、雅楽研究家。・・・近衛秀麿の三男(非嫡出子)として・・・生まれる。・・・1939年10月19日、父の末弟である水谷川忠麿の養子となり、忠俊と改名。・・・学習院初等科在学中、奈良県に転居し、奈良女子高等師範学校附属小学校(現・奈良女子大学附属小学校)から同中学校・同高校(現・奈良女子大学附属中等教育学校)を卒業。上京後、山本直純の助手を務めながら作曲を学ぶ。1962年8月、マドリード王立音楽院の給費留学生の試験に合格し、スペインに留学。1963年、ベルリン市立音楽院(現・ベルリン芸術大学)に留学。1968年、日本に帰国。
実兄の近衛秀健も作曲家で指揮者。妻は子爵阿野季忠の長男阿野季房の娘で、学習院初等科の同級生だった佐喜子。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E4%BF%8A
⇒近衛文麿と同世代以降の近衛家の人々には著者の言うところの「公家」的でない人々がたくさんいた・・私はここで挙げられた全員がそうだとは必ずしも思いませんが・・、と言うのなら、前世代の近衛家の人々はどうだったのか、ということになります。
例えば、文麿の父の篤麿や曽祖父の忠煕は「公家」的な人だったのか否か、著者は答えなければならないけれど、答えられないはずです。
というのも、彼らは、衆目が一致するところ、そんな人物ではなかった(と私は認識している)からです。
私に言わせれば、結局のところ、人格においても能力においても欠陥だらけであった文麿という人物と密接な関わりを持つ因果な廻り合わせになってしまったところの、文麿自身、や、野口、富田ら、そして、奇特にも文麿を弁護したいと決意した著者、が、そのような自分達自身の言動の言い訳として、文麿の「公家」性なる呪文を一様に唱えただけなのです。(太田)
(続く)