太田述正コラム#13544(2023.6.14)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その53)>(2023.9.9公開)
「・・・高木の和平構想は、蒋介石を全く視野に入れず、もっぱら延安の共産党とソ連を志向していた。・・・
高木のこのような考え方は、重慶のアメリカ軍幹部や国務省員らに蔓延していた、蒋介石の国民党を誹謗し、延安の共産党を礼賛する言動に通じるものがあろう。・・・
⇒おー、さすがに著者でも、これに気はついているのですね。
もっとも、その「国民党・・・誹謗」と「延安の共産党・・・礼賛」は、私の見るところ、杉山元らの最初からの評価であり、この認識に1944年の頃までにようやく米国政府と帝国海軍が追いついた、というだけのことなんですが・・。(太田)
これは前述した陸軍の松谷や種村など和平工作担当者の考え方とも合致していた。
ただ、陸軍は一枚岩ではなく、阿南を始め今井武夫など、対ソ志向ではなく、対重慶工作を最後まで模索して努力していた人々がいたのに対し、海軍には全くそれがなかった。
⇒いやいや、ホンネベースにおいては、帝国陸軍じゃあ、阿南を含む杉山元らの中でそんな人は皆無だった、と、断定できます。(コラム#省略)(太田)
米内も対重慶工作には全く否定的だった。・・・
<藤村義朗(コラム#13026)>中佐によるダレス工作についても、高木惣吉がこれを採り上げるべきだと強く進言したのに対し、米内がこれを冷たく突き放して高木を失望させた。
⇒高木の判断能力は米内にすら劣っていた、ということです。(太田)
井上成美も同じで、対重慶工作はまったく念頭になかった。・・・
1940年2月下旬、上海で支那方面艦隊の各司令長官の会議があった際、第三艦隊司令長官の野村直邦<(注98)>中将が、井上に「自分にも重慶と特別のルートがあるに付、一つやってみようと思うがどうかね」と聞いてきたが、井上はすかさず「クビを覚悟ならどうぞ!」と冷たくあしらったという・・・。・・・
(注98)1885~1973年。海兵35期、海大18期(次席)。独駐留武官等を経て、「1939年(昭和14年)には第三遣支艦隊司令長官に就任するが、1年後の1940年(昭和15年)には日独伊三国同盟の軍事委員としてベルリンに赴任する。
ベルリンには、1943年7月まで駐在の後、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが日本海軍に贈ったUボートU511に便乗して帰国。帰国後は呉鎮守府司令長官に就任。大将に昇進後、東條英機内閣の末期の1944年7月17日に海軍大臣に就任し17日午前4時頃に親任式を終えたものの、その日のうちに東條内閣総理大臣が退陣を表明し、翌18日の午前には内閣総辞職。7月22日の小磯國昭内閣成立で米内光政が後任海軍大臣に親補されるまで更に4日間、合わせて6日間海軍大臣を務めた。短命閣僚として国務大臣通算在任期間6日間は戦前(戦中)の日本政治史上最短記録である。その後は軍事参議官、横須賀鎮守府司令長官、海上護衛司令長官を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%9B%B4%E9%82%A6
・・・樋口秀美<(注99)>・・・によれば、中国をめぐる米ソ対立を意識的に引き出し、戦後日本がその間で利益を収めればよいと考え、この構想実現のため、中国共産党の勢力を華中華南に引き入れることを考案したのはもともと井上の発想だったという。
(注99)1967年~。國學院大文(史学)卒、同大博士。「1995年中国天津市・南開大学日本研究センターに留学。1996年國學院大學日本文化研究所共同研究員。専攻は近現代の日中関係史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E7%A7%80%E5%AE%9F
新名丈夫の回想によると、井上は1945年2月頃、記者会見で次のように話したという。
「終戦の一つの方法は海軍が中支那を明け渡すことだ。そこに中共軍は入ってくる。アメリカの太平洋作戦の目標は日本を取ることよりも中国市場を手に入れることだ。ところが中支那が中共の勢力に入ればアメリカは戦争目標を失うことになる。北支那は陸軍が明け渡しそうにないから、海軍の地盤を明け渡せば終戦への近道になる」
今日の目で見れば恐ろしい見当違いだったと言わざるを得ない。・・・
このようなソ連や延安の共産党のみに傾斜した海軍の姿勢が、スイスでの藤村工作をまともに取り上げようとせず冷たく突き放し、また、繆斌工作など重慶との和平工作について一切支援せず、それを妨害した背景にあったと言えよう。」(302~304)
⇒著者が、一貫して、ソ連と中国共産党を一枚岩視しているのは、両者の戦後における対立は当然知っているはずなのに、不思議です。
また、藤村工作や繆斌工作をまともに取り上げなかったのは、どちらも、相手方が仕掛けた謀略、しかも箸にも棒にもかからない謀略であった(コラム#省略)、以上、井上ならずとも当たり前です。
それはそれとして、井上の、帝国陸軍が考えていたこと、とりわけ、杉山元らが考えていたことについての推測の甚だしい誤りには、改めて呆れさせられます。(太田)
(続く)