太田述正コラム#13554(2023.6.19)
<太田茂『新考・近衛文麿論』を読む(その56)>(2023.9.14公開)

 「・・・私は、繆斌工作の当時、阿南が陸軍大臣だったとすれば、この工作が成功する可能性は十分にあった<と>思う。・・・
 阿南は、・・・陸相就任直前、・・・この工作を説明された。
 翌日、陸軍大臣就任予定の阿南は、「自主的撤兵ならする。小磯はやめる必要はない。陸軍に繆斌工作を協力させる」と言った。・・・
 <ちなみに、>小磯自身は<組閣時に>陸相に山下奉文か阿南を推したが、杉山となった・・・<という経緯があるところ、>阿南の小磯に対する評価は・・・「・・・策略多クシテ至誠ニ徹セズ・・・<ソ>ノ浪曲的口演ヲ聞ク丈ケニテモ、真ノ純真ノ国士ハ不快ヲ感ズルヲヤ」と・・・低かったが、小磯が進めた繆斌工作の意義はよく理解し、支援していた。・・・

⇒支那派遣軍隷下の第11軍司令官だった阿南は、1942年7月に第2方面軍司令官としてチチハルに赴任し、その第2方面軍は1943年10月に南方に転用され、阿南自身は更にその後、1944年12月に航空総監兼航空本部長に異動させられているので、陸相に就任した1945年4月当時は、3年近く支那を遠ざかっていて、支那情勢、とりわけ、蒋介石政権の状況・・に疎くなっており、「繆斌工作の意義」を「よく理解し」た上で「支援していた」はずがありません。
 阿南は、陸相に就任してから、同じく杉山構想が開示されていたところの、梅津参謀総長、から、「繆斌工作の意義」を「よく理解」させられ、直ちにこの工作が斥けられてよかったと納得したはずです。(太田)

 阿南は、・・・軍を挙げてアメリカと戦い、一撃によって有利な条件での講和に持って行きたいと強く考えていた。
 <だから、>阿南は、本土決戦よりも、その前に沖縄戦で、全力を挙げてアメリカを叩くべきだと主張していた。
 ・・・当時、大本営は、本土決戦のために航空戦力を温存し、残余を沖縄作戦に充てる意図であったが、阿南はこれに大反対<したけれども、>・・・梅津の反対で実現しなかった。
 このとき、阿南の幼年学校同期の将軍だった沢田茂<(注103)>は、「大先輩であり、日ごろは尊敬している梅津さんを、この時ばかりは阿南が遠慮なく罵倒するのでハラハラさせられた」と回想する・・・。

 (注103)1887~1980年。幼年学校、陸士18期、陸大26期。最終階級は陸軍中将。「高知県高知郡鴨部村(現・高知市鴨部町)出身。農業・・・の三男として生まれる。・・・シベリア出兵の経験から、以後はソ連通とした、しばしば対ソ関係業務に携わることとなった。・・・
 ギリシア公使館付武官・・・ハルビン特務機関長・・・ポーランド公使館付武官・・・第4師団長に親補され満州チャムスに駐屯・・・<等を経て、>1939年(昭和14年)10月2日、参謀次長に就任、ノモンハン事件および仏印進駐の後始末と責任処置を尽力。1940年(昭和15年)11月15日参謀本部付、次長職を塚田攻中将に讓る、同年12月2日、第13軍司令官となり太平洋戦争を迎え、中国戦線で活動。1942年(昭和17年)10月8日、参謀本部付となり、翌月16日予備役に編入された。1943年(昭和18年)4月1日、参謀本部嘱託(軍事研究会)となり、同年12月に召集され参謀本部付となり、引き続き軍事研究会の担当となる。・・・
 大佐時代から緑内障を患い、片眼を摘出。もう片方の眼も第13軍司令官時代の末期ごろから次第に視力を失い、晩年には完全に失明した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%94%B0%E8%8C%82

 中国戦線でもニューギニア戦線でも、阿南は、作戦環境がどんなに客観的に不利な情勢にあっても、結果を恐れず勇猛に戦う指揮官だった。・・・

⇒杉山構想の観点から終戦の時期を調整するためには、日本本土で使える兵力をある程度は残しておかなければならず、航空兵力が潰滅すれば、地上部隊の質量いかんにかかわらず、事実上、兵力は無きに等しくなってしまうので避けるべきだということは、重々承知しつつも、阿南は、つい、習い性が抑えられなくなる人物だった、ということでしょうね。
 梅津は、そのことが分かっていたので、阿南を窘めなかったのでしょう。(太田)

 <なお、>阿南<は、>ぎりぎりまでクーデターを否定しないような言動をする一方で、閣議<が>宣言受諾論に進みつつあることを、・・・<あたかもそうでないように、>内閣書記官長の迫水久常・・・まで<ダシにし>た腹芸で強硬派に知らせなかったのはまさに綱渡りだった。・・・
 <ちなみに、>梅津<も、>・・・1945年6月に・・・天皇に「支那総軍の装備は大会戦をするなら1回分にも満たない」などと実情を率直に上奏して天皇を驚かせ、これが天皇が一撃講和論を改めて和平に舵を切ることにつながったと言われる。」(316~317、328~330)

⇒(その背後に杉山元がいたわけですが、)梅津と阿南が、自分達が、終戦時期を自由に決定できるよう、そして、決定した時にその決定を貫徹できるよう、上は天皇、下は陸軍内強硬派、に対し、連携しつつ巧みなたぶらかしを行い続けた、というわけです。(太田)

(続く)