太田述正コラム#13564(2023.6.24)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その3)>(2023.9.19公開)
[ルス建国「神話」の特異性]
一 ヴァイキングがルーシで平和的統治開始?
表記のようなルーシ建国「神話」が史実だとすれば、以下の諸史実に照らし、それは例外中の例外であったと言える。↓
・ノルマン公国の建国:「ロロ・・・は成長すると東バルト海方面を襲撃したが、ある夏、ヴァイキング行からヴィークに戻ると、そこで略奪行為を働いた。国内での略奪は法律で禁じられていたため、彼はハーラル美髪王<(注4)>の怒りを買い、民会で国外追放に処せられた。
(注4)ハーラル1世(850年頃 – 930年頃)は、ノルウェー最初の統一王とされる人物(在位:872年頃 – 930年頃)である。・・・
ハーラルのノルウェー統一は実際には、略奪的なヴァイキング(本来は「遠征」の意味)によらず、交易に関与し沿岸航路の安全をはかる必要のあった豪族たちによる協働の結果とする説も唱えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%AB1%E4%B8%96_(%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E7%8E%8B)
追放後、彼は一族郎党を引き連れてヘブリディーズ諸島へ赴いた後、フランス北岸へ侵入し、荒らした。ヴァイキングの襲撃に悩まされていた西フランク王シャルル3世は、ロロにヴァイキングの襲撃を防げばエプト川からリール川の間の土地(現在のノルマンディー地方東部)を与えると申し出た。911年夏、ロロはシャルトルの戦いで大敗を喫し<、>同年晩秋に両者はサン=クレール=シュール=エプト条約を結び、ロロはノルマンディー地方を得て、シャルル3世の王女ジゼルと結婚し、ノルマンディー公に叙された。
ロロは贈り物の返礼として司教たちに国王の足に口づけするように求められたが、これを拒否して部下に代行させた。代行した部下はフランス王にひざまづいてキスをするのではなく、フランス王の片足をつかんで逆さまに吊り上げ、足にキスをした。これはロロたちノルマン人がいずれもが同等であり、主人を持たない気風によるものと伝えられている。
条約を締結した1年後、ロロはキリスト教に改宗<する等>、当初<は>王との約束を守<ったが、>・・・間もなく侵略に転じ、近隣諸国の領土を拡大し勢力を伸ばした。
<ジゼルとの間の子女はいないが、>子孫はギヨーム2世のときイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AD
・ノルマン公国のイギリスの征服:省略
・ノルマン公国人の南イタリアの征服:「1066年の一つの決定的な戦いから数年後に達成されたノルマン人によるイングランド征服とは異なり、ノルマン人による南イタリア征服は何十年間にも及ぶ年月と多くの戦闘の産物であり、決定的な出来事をほとんど欠いていた。多くの土地がそれぞれ別個に獲得ないし征服され、これらが後年に一つの国家としてまとまったのである。イングランド征服と比較すると、南イタリア征服のほうは全体として見れば非計画的かつ非組織的な活動の積み重ねであり、文字通りの征服とは呼べない部分もあったものの、最終的には同じように全面的な征服として完了した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%8D%97%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%BE%81%E6%9C%8D
二 スラヴ国家建国の前例
「パンノニア<(注5)>に住み着いたアヴァール<(注6)>人は、560年代に先住民のスラヴ人(ヴェンド人)を支配下に置いた。ヴェンド人は度々アヴァール人に対し反乱を試みており、サモは彼らに武器を提供するフランク人商人だったとされる。
(注5)「古代に存在した地方名。ローマ帝国の時代には皇帝属州であった。北と東はドナウ川に接し、西はノリクムと上イタリア、南はダルマティアと上モエシアに接した。パンノニアの領域は現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがる。今日では、パンノニアという地名は、ハンガリーのトランスダニュービア地方(Transdanubia・・・)およびセルビア等に広がるパンノニア平原を指して使われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%8B%E3%82%A2
(注6)「5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称した<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AB
偽フレデガリウス年代記によればサモがヴェンド人の土地に赴いたのは623年ごろのことであるが、この年代には疑問が残る。ヴェンド人の反乱が起きたのは、626年にアヴァール人がコンスタンティノープル包囲戦に敗れた後だからである。
どちらにせよヴェンド人の反乱の中でサモは彼らの指導者となってアヴァール人を破り、王(rex)に選出された。・・・
サモ王国・・・もしくはサモ帝国・・・は、史学上631年から658年にかけて<、この>サモを指導者として存在した部族連合国家を指す。チェコ人、ソルブ人、ドナウ川流域(現ニーダーエスターライヒ)の西スラヴ人を包含しており、最初のスラヴ人の国家とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
三 私の「仮説」
誰でも思い付くであろう仮説は、スラヴ人が、生来的に、(ヴァイキングやフランク人を含む)ゲルマン人の政治・軍事能力に対して畏敬の念を抱いているのではないか、というものだ。
しかし、少しネットを調べてみた範囲では、ドイツ、特にナチスドイツのスラヴ人に対する優越感の話
https://www.nationalww2museum.org/war/articles/nazi-forced-labor-policy-eastern-europe
しか出て来ない。
とまれ、この私の「仮説」を念頭に置いて、このシリーズを続けることにしたい。
(続く)