太田述正コラム#2743(2008.8.21)
<グルジア「戦争」の歴史的背景(その1)>(2008.10.1公開)
1 始めに
 このあたりで、今次グルジア「戦争」の歴史的背景を振り返っておきましょう。
2 歴史的背景
 1237年から40年にかけて、モンゴルがロシアに侵攻し、オセチア人は南方に移住せざるをえなくなり、コーカサス山脈を越えて今日のグルジアにも定住するに至りました。
 ちなみに、オセチア語は東イラン系の言葉ですが(
http://en.wikipedia.org/wiki/Ossetia
。8月21日アクセス)、グルジア語(南コーカサス語)は、インドヨーロッパ語族、セム語族、トルコ語族等のいずれにも属さない独立した言葉です(
http://en.wikipedia.org/wiki/South_Caucasian_languages
。8月21日アクセス)(注1)。
 (注1)かつてグルジア人の国家としてコルチス(Colchis)とイベリア(Iberia)があったが、後者は、4世紀に、世界で最も早くキリスト教を国教にした国のうちの一つだ(
http://en.wikipedia.org/wiki/Georgia
。8月21日アクセス)。
 18世紀と19世紀において、ロシア帝国は次第にコーカサス地方にまで版図を広げ、その過程で北コーカサスの諸民族から強い抵抗を受けましたが、南オセチア人は対露蜂起には加わらず、中にはロシア軍に味方する者もいました。
 1801年に、南オセチアとグルジアはロシアに併合されます。
 1918年に、ロシア革命勃発を受け、グルジアが独立を宣言します。
 1921年に赤軍がグルジアに侵攻しますが、この時、南オセチア人は赤軍に協力します。 1922年にグルジアは創立メンバーの一員としてソ連に加盟させられます。この時、南オセチア自治区(Oblast)がグルジア内につくられます。
 1989年には、冷戦の崩壊に伴い、南オセチアで自治権の拡大を目指す声が高まり、オセチア人とグルジア人との暴力紛争が起きます。
 1990年から91年にかけて、南オセチアでは独立の気運が高まり、暴力紛争が激化します。
 1991年にはソ連が崩壊します。
 1992年には南オセチアでの非公式の世論調査で、独立賛成が多数を占め、暴力紛争で数百~数千人が死亡したため、同年6月に、ロシア(エリティン大統領)、グルジア(シェワルナゼ国家評議会議)、南オセチアの三者間で休戦協定が成立し、この前二者による平和維持部隊の南オセチア駐留が決ります。そして休戦の監視にCSCE(全欧安保)の要員が派遣されます。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.guardian.co.uk/world/2008/aug/08/georgia.russia5
(8月9日アクセス)による。)
 2000年にはプーチンがにロシア大統領に就任します。
 2001年には南オセチア独立派武装勢力指導者のココイトイ(Eduard Kokoity)が南オセチアの「大統領」に当選します、南オセチアの特殊機関や軍幹部はロシアの「平和維持部隊」を通じロシア治安機関の影響下に入り、事実上ロシアの傀儡機関と化しているとの見方が一般的です。
 (以上、
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2008081002000111.html
(8月10日アクセス)による。)
 2006年11月には、これに対抗すべく、南オセチア内のグルジア人諸村は、それまでグルジアからの分離派であったサナコエフ(Dmitry Sanakoyev)を指導者に選びます(
http://www.guardian.co.uk/world/2008/aug/08/georgia.russia3
。8月9日アクセス)。
 前後しますが、2006年初めロシアは。グルジアの農産品、次いでワインとミネラルウォーターを輸入禁止にしたため、グルジアは輸出できるものがなくなってしまいます。
 その後、グルジア政府がロシアの外交官達をスパイ容疑で追放すると、ロシアのプーチン大統領(当時)は、ロシアとグルジアとを結ぶ陸海空の全ルートを閉鎖し、郵便のやりとりを停止します。
 2004年1月にはサカシヴィリがグルジアの大統領選挙で勝利し、大統領に就任します。そして、就任後まもなく、分離独立を標榜していた、南西方面のアジャラ(Ajara=Adjara)・・居住者は大部分がグルジア人(
http://en.wikipedia.org/wiki/Ajaria
。8月21日アクセス)・・に対する統治権を回復することに成功し、同年の夏には、今度は南オセチアに内務省の部隊を送り込みます。しかし、こぜりあいを続けた挙句、撤退のやむなきに至ります。
 (以上、特に断っていない限り
http://www.nytimes.com/2008/08/10/world/europe/10diplo.html?ref=world&pagewanted=print
(8月10日アクセス)による。)
(続く)