太田述正コラム#13574(2023.6.29)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その8)>(2023..24公開)

 「・・・1223年、モンゴル人はステップでまず遊牧民のアラン人<(注11)>、次いでポロヴェツ人<(注12)>と衝突しました。

 (注11)「紀元後に北カフカスから黒海北岸地方を支配した遊牧騎馬民族。イラン系遊牧民族であるサルマタイを構成する部族のひとつ、ないしいくつかの総称。・・・
 フンとともに<欧州>へ移住したアランとは別に北カフカースに残ったアランもいた。クバン川とテレク川の河間地帯や山中へと移動した。6~7世紀には北カフカースに本拠を置き、しばしばサーサーン朝の同盟者としてその名がみえる。7~8世紀にはテュルク系のハザールやブルガールと戦火を交え、その後もカフカース山中に残存した。8~9世紀に封建関係の萌芽が生まれ、10~12世紀には国家の形態をとるまでになった。10世紀にキリスト教が受容されたが、それは支配階級にとどまり、一般民衆の間には古来の多神教的な要素が根強く残ったという。オセット人やカバルダ人など今日のカフカース諸民族は自らの民族形成にアランが果たした役割を強調しており、とくに北オセチア、南オセチアは国名に「アラニヤ(Алания)」という語を付している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E4%BA%BA
 (注12)Половец=キプチャク(Kipchaks)。「11世紀から13世紀にかけて、現在のウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在したテュルク系遊牧民族。・・・現在のカザフスタンからモルドバにかけて広がる平原地帯は、当時キプチャクの名前にちなんでキプチャク草原(Dasht-i Qipchāq)と呼ばれた。またのちにキプチャク草原を支配したモンゴル帝国のジョチ・ウルスが通称キプチャク・ハン国と呼ばれるのはこのためである。・・・
 ペチェネグに代わって新たなルーシ諸国の脅威となる。1091年、東ローマ帝国のアレクシオス1世を助けて、バルカン半島のペチェネグ軍を壊滅させるが、キエフ・ルーシに対しては度重なる襲撃と略奪を行い、1096年にはキエフ・ペチェルスキー修道院を焼失させた。12世紀初頭、キエフ・ルーシの公スヴャトポルク2世とウラジーミル2世モノマフは一連のポロヴェツ(キプチャク)遠征を企てて成功を収め、ポロヴェツ(キプチャク)はドン川流域にサルチャク・カンの少数の軍が残る程度となる。サルチャクの弟オトロクは四方のポロヴェツ(キプチャク)を連れてグルジア王国のダヴィド王に仕えた。1125年、ウラジーミル2世モノマフが没し、ルーシ諸侯の抗争が激化すると、ポロヴェツ(キプチャク)は諸侯によって敵対・協力の関係をとるようになり、定住したり、通婚したりする者が現われた。なお12世紀初頭から、ポロヴェツの長を、ルーシの長と同じクニャージと称する記述が年代記にみられるようになるが、これはルーシ諸公とポロヴェツ族との関わりの深化を示唆するものである。1170年 – 1180年代になると、ポロヴェツ(キプチャク)は再びルーシに侵攻し、キエフ公スヴャトスラフや、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公のイーゴリといったルーシ諸侯と激闘を繰り広げた。1223年、2回にわたるモンゴル軍の侵攻により、キプチャクはその版図に組み入れられ、キエフ・ルーシともどもジョチ・ウルス領となる・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%97%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF
 「ペチェネグ(英:Pechenegs)は、8世紀から9世紀にかけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%82%B0

 ポロヴェツは戦いに敗れ、その一部はルーシ諸公に助けを求めるに至ります。
 ルーシと遊牧民の間では戦闘ばかりでなく、婚姻関係もたびたび結ばれていました。
 この時に助けを求めたポロヴェツ指導者は、ルーシ諸公ガーリチ公の娘を妻としていて、つまり岳父を頼ってきたのです。
 そこで南ルーシの諸公はキエフで・・・キエフ大公ムチススラフ<(注13)>以下が>・・・会議を開き、ポロヴェツとともにモンゴル軍を迎え撃つことを決めます。・・・

 (注13)ムスチスラフ3世(ムスチスラフ・ロマノヴィチ。1156/62~1223年)。「リューリク家<。>・・・214年、従兄弟のムスチスラフ・ムスチスラヴィチがノヴゴロド公となり、ムスチスラフをキエフ大公とした。・・・1223年、モンゴル帝国軍の最初の侵攻の情報がもたらされると、ムスチスラフとムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、キエフにて、モンゴル軍に対する諸公との会議を取り持った。しかし、肝心のカルカ河畔の戦いでは川岸の要塞化を怠り、3日で侵略を許した。諸公の連合軍は敗れ、ムスチスラフは捕虜となり処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%953%E4%B8%96

 なお、北東ルーシに影響力を振るったウラジーミル大公ユーリー<(注14)>・・・の名はありません。」(16)

 (注14)ユーリー・ダニーロヴィチ(1281~1325年)。「リューリク家<の>・・・初代モスクワ大公ダニール・アレクサンドロヴィチの長子<。>・・・モスクワ大公(在位:1303年 – 1325年)、ウラジーミル・スーズダリ大公(在位:1318年 – 1322年)。ウラジーミル・スーズダリ大公としてはユーリー3世・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC3%E4%B8%96_(%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E5%A4%A7%E5%85%AC)

⇒モンゴル襲来の頃、キエフ・ルーシは、支配者が同族であったにもかかわらず、既に、キエフ大公国とモスクワ大公国に分裂していたわけです。
 要は、ヴァイキングが東スラヴ人に同化してしまい、自己統治能力も、そして恐らくは戦闘能力も、弱体化してしまっていたのでしょう。
 それだけで、モンゴルの襲来に鎧袖一触、敗北してしまうのは避けられなかったことでしょう。(太田)

(続く)