太田述正コラム#13578(2023.7.1)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その10)>(2023.9.26公開)
「1223年4月、南ルーシの諸公とポロヴェツの騎馬部隊は集結しました。
彼等は二度派遣されてきたモンゴルの使者を一度目は殺害、二度目は追い返し、さらに斥候部隊を打ち破りますが、深追いがたたり、5月31日、カルカ川(現ウクライナ、マリウポリの北方)で大敗を喫することになりました。
この戦いで、ルーシ川では大公ムスチスラフを含め6名の公が戦死し、10分の1の兵だけが帰国を果たした、というのが年代記の伝えるところです。<(注17)>
(注17)「チンギス・カン<の>・・・命令を受けたジェベ・スブタイ両将軍は二つのテュメン(万人隊)を率いて西進を始め、<やがて、>・・・キプチャク草原に入った。この事態にキプチャク草原の遊牧民ポロヴェツ族は北西方面に避難を始め、ルーシに援助を求めた。ポロヴェツ族の長コチャン・カンの娘を妻にしていたガーリチ公ムスチスラフが説得に応じポロヴェツ・ルーシ連合軍を組織した。
連合軍は東へ進み、アゾフ海の北岸、カルカ川(現在のカリチク川、ないしは、カルミウス川のいずれかの支流)の河畔でモンゴル軍を迎え撃った。モンゴル軍は事前にポロヴェツ族の一部や「放浪民(プロドニキ)」と総称される特定の領主を持たないルーシ人を味方に引き入れていたものの、数量では<2万以下、対、3万5000以上、と、>まだまだ劣っていた。しかし、もともと急造の連合軍である上、大軍である驕りもあってポロヴェツ・ルーシ連合軍は偽って退却を始めたモンゴル軍に対し安易に攻撃をしかけ、戦線が延びきったところで逆にモンゴル軍に包囲され大敗を喫した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%AB%E6%B2%B3%E7%95%94%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
モンゴルの騎馬部隊はルーシの敗残兵をドニエプル川まで追いましたが、そこで東に転進しました。
彼等はそのまま、ヴォルガ中流域のブルガールを攻めますが、この攻略には失敗し、東に去っていきました。」(16~17)
⇒モンゴル軍がどうして強かったのかについては、
https://hajimete-sangokushi.com/2020/12/05/moukoheistrong/
https://mongolia.hushtug.net/mongolia-army/
や、前出の宮脇淳子によるもの↓・・但し、無料の範囲では途中までしか読めない・・
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=4752
を参照していただきたいところ、これらには典拠を付されていないが、両者が概ね同じことを言っているのと、英語ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Mongol_military_tactics_and_organization
と突合しても齟齬がないので、これら邦語による叙述を参照していただくことし、あえてその内容の要約説明は行いません。
とにかく、モンゴル軍は強いのですから、このカルカ河畔の戦いにも、そのかなり後の1241年のワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い)(注18)でも、モンゴル軍に粉砕されたのは当たり前とは言いながら、後者の場合は、モンゴル2万人に対してドイツ・ポーランド連合軍が2万5千人と兵力差が余りなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
のですから、やはり、ルーシ・ポロヴェツ軍・・その内実は東スラヴ軍と言える・・はドイツ・ポーランド軍・・その内実は「注18」から分かるように西スラヴ軍と言える・・よりも更に弱かった、と言えそうです。(太田)
(注18)Battle of Legnica。「ワールシュタットの戦いで総司令官のヘンリク2世は戦死、その公家であるシロンスク・ピャスト家が支配していたシロンスクとクラクフの公領は分裂し(シロンスク公国群)、ポーランドは統一から遠のく。モンゴル軍はこの戦いの翌日には別の部隊がヘルマンシュタットでトランシルヴァニア軍を、三日後にはバトゥ本隊がモヒの戦いでハンガリー軍を撃破し、この三つの戦いと掃討戦で一説には15万人もの戦士を殺している。ポーランドを席捲したバトゥは一時オーストリアのウィーン近くまで迫るが、モンゴル皇帝オゴデイが急死したことによって撤退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
英語ウィキペディアは、ドイツ・ポーランド連合軍ではなく、’A combined force of Poles and Moravians under the command of Duke Henry II the Pious of Silesia, supported by feudal nobility and a few knights from military orders sent by Pope Gregory IX’ としている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Legnica
「モラヴィア(英語: Moravia)は、<現在の>チェコ共和国東部の地方。・・・
モラヴィアの言語、民族はチェコと区別されることはないが、少なくとも19世紀まではモラヴィアの住民は自分たちは「チェコ人」ではなくモラヴィア人であると認識していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2
(続く)