太田述正コラム#13580(2023.7.2)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その11)>(2023.9.27公開)
「・・・1237年の秋、バトゥ<(注19)>の軍はルーシのリャザン公国<(注20)>の国境に迫ります。
(注19)1207~1256年。「ジョチ家の2代目当主(ハン:在位1225年 – 1256年)で、ジョチ・ウルスの実質的な創設者。チンギス・カンの長男のジョチの次男である。・・・
1236年春2月、モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの命を受けて<欧州>遠征軍の総司令官となり、四狗の一人であるスブタイやチンギス・カンの四男のトルイの長男であるモンケ、そしてオゴデイの長男であるグユクらを副司令として出征した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%88%E3%82%A5
(注20)「13世紀初頭にはリャザン公国に<おいて>・・・、旧リャザンは15,000人、ペレヤスラヴリは2,000人ほどの人口を抱えていた。しかし旧リャザンは1237年12月21日、モンゴル帝国のバトゥのルーシ侵攻によって略奪破壊されたロシア最初の街となり・・・、これ以後再建は進まず結局立ち直らなかった。リャザン公国の町々もことごとく灰燼に帰したが、ペレヤスラヴリは当時経済的重要性<が>失われておりほぼ無傷で残った。13世紀末には主教もペレヤスラヴリに戻り、14世紀初頭にはリャザン公国の首都はペレヤスラヴリに移され、ペレヤスラヴリ=リャザンスキー(・・・ Pereslavl-Ryazansky)と呼ばれるようになった。これが現在のリャザンである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%82%B6%E3%83%B3
リャザン(Ryazan)公国の位置は下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%82%B6%E3%83%B3%E5%85%AC%E5%9B%BD#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kievan_Rus_in_1237_(en).svg
バトゥは・・・使節を送り、諸公を含め、あらゆる者から「十分の一貢納」を求めました。
これに対してリャザン公は抗戦を決意し<、>・・・北方のウラジーミル大公ユーリーらに援軍を要請しますが、・・・バトゥが先んじて動<き、>・・・リャザン軍は・・・打ち破られ<、>・・・その後のリャザンでの籠城戦も6日間で終わりを迎え(・・・12月21日)、リャザン公は住民もろとも殺害されました。・・・
モンゴルは・・・北東ルーシの首都都市ウラジーミルの攻略に取りかかり・・・1238年2月7日にこれを陥落させました。・・・
<更に、>大公ユーリーを追って北進し、シチ川にて大公軍を打ち破り、大公ユーリーを死に追いやりました(3月4日)。・・・
南に戻ったモンゴル軍は、1238年の秋にコーカサス西部から黒海北岸にかけてのステップの攻略にかかります。
そのなかで、翌年には一部のモンゴル部隊が南ルーシの・・・ペレヤスラヴリ<(Pereyaslavl)公国>(3月)、チェルニゴフ<(Tchernigov)公国>(10月)を攻め落としました。
⇒両公国の位置も上掲参照。(太田)
冬になるとモンゴル軍はポロヴェツ人を追ってクリミアに攻め入り、12月末には半島の南端に達します。・・・
ドニエプルの渡河<の後、>・・・「ルーシ諸都市の母」なるキエフ<の>・・・本格的な攻撃は・・・1240年の・・・秋でした。・・・
ところが、ルーシ諸公にはこの段に至っても団結していた様子がありませんでした。
この時のキエフ公も町の防衛に回らず、こうしてキエフは公の代官のもとで防衛戦に入ることになりました。・・・
⇒ルーシ各公国間の団結心の欠如、ルーシ指導層の責任感の薄弱さ、といったところです。
ウラジーミル大公にせよ、キエフ公にせよ、それぞれの「首都」に住民を残したまま逃げ出しており、ヴァイキング達は東スラヴ化しつつありながら、被治者たる東スラヴ人達への愛着は依然薄い感を否めません。(太田)
<そして、>遂に1240年12月6日、キエフはモンゴル人の手中に落ちました。
その後バトゥの主力部隊は西進し、<ヴォルィニ公国や、>・・・ガーリチ<公国>・・・を荒廃させたのち、さらにポロヴェツの敗残部隊を追ってカルパチアを越えてハンガリーに侵攻します。
⇒両公国の位置も上掲参照(但し、ヴォルィニ公国がどこかは判然とせず)。(太田)
1241年4月11日にはハンガリー王ベーラ4世(在位1235~70年)を破りました。
別の部隊はポーランド方面に去って、リーグニッツ(ワールシュタット)の戦い<(前述)>で西欧世界を脅かすことになりました。
ところが1242年3月、本国から大カアン・オゴデイの死の知らせが届き、全軍が引き返すことになりました。・・・」(18~20)
(続く)