太田述正コラム#13582(2023.7.3)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その12)>(2023.9.28公開)

 「1238年の北東ルーシに話を戻します。
 モンゴル軍が北東ルーシから去って南や西への遠征を進めていた頃、のちのロシアにつながる北東ルーシ地方においては、年代記によると、「静かな平和」があったそうです。
 ウラジーミルでは、戦死したユーリー大公の弟のヤロスラフ<(注21)>(在位1238~46年)が大公の座につき、・・・1239年には西のスモレンスクに遠征<(注22)>を行っています。・・・

 (注21)ヤロスラフ2世 (ウラジーミル大公。1191~1246年)。「1204年に、ステップ遊牧民のポーロヴェツ人(クマン人)と戦った。1223年にノヴゴロド公になるが、すぐに追放される。しかし、ライヴァルのチェルニゴフ公ミハイルを破り、1229年に再度ノヴゴロド公に。1234年にドルパト(ユーリエフ)において、リヴォニア帯剣騎士団を破る。1236年には、ノヴゴロド軍と共にキエフに来たる。しかし、すぐに撤退。1238年に兄ユーリーの戦死の後、1243年、バトゥによりサライの宮廷に召喚され、ウラジーミル大公位に任じられ「ルーシ諸公の長老」としての権威を認められる。1246年にグユクの大ハーン即位式に赴いた先のカラコルムにて死去。モンゴルにより毒殺されたという話が同時代の年代記で伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%952%E4%B8%96_(%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%85%AC)
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%AF%D1%80%D0%BE%D1%81%D0%BB%D0%B0%D0%B2_%D0%92%D1%81%D0%B5%D0%B2%D0%BE%D0%BB%D0%BE%D0%B4%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87_(%D0%BA%D0%BD%D1%8F%D0%B7%D1%8C_%D0%B2%D0%BB%D0%B0%D0%B4%D0%B8%D0%BC%D0%B8%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9)
 「リヴォニア帯剣騎士団、正式名称リヴォニアのキリスト騎士修道会<。>・・・この騎士団の目的は、バルト三国周辺の異教徒達を服属させカトリックに改宗させることと、在留クリスチャンや宣教師(伝道者)を保護することである。・・・他の騎士修道会とは違い、騎士修道会の総長のさらに上位にリガ司教が君臨していた<。>・・・202年に設立、・・・1236年にリトアニアのザウレ(シャウレイ)にてリトアニア軍と戦い、総長フォークウィンを含む大勢の騎士が戦死する惨敗を喫し(ザウレの戦い)、翌年1237年にはドイツ騎士団に吸収合併され、リヴォニア騎士団として自治的な分団の地位に置かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B8%AF%E5%89%A3%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3
(注22)1238年に、ウラジーミル大公国がモンゴル軍に敗北し、また、たまたまスモレンスク公が亡くなると、その機に乗じて、(できたばかりの)リトアニア国がスモレンスク公国のスモレンスクを占領したので、ヤロスラフ2世がスモレンスクを再占領した。
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9B%D0%B8%D1%82%D0%BE%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9_%D0%BF%D0%BE%D1%85%D0%BE%D0%B4_%D0%9C%D0%B8%D1%85%D0%B0%D0%B8%D0%BB%D0%B0_%D0%92%D1%81%D0%B5%D0%B2%D0%BE%D0%BB%D0%BE%D0%B4%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87%D0%B0
 「リトアニアはドイツ騎士団<(テュートン騎士団)>による侵攻に悩まされていたが、ミンダウガス(在位:1236年 – 1263年)は諸部族をひとつにまとめ上げてリトアニアを統一した。1236年に初代かつ最後の王として即位した。これは西方キリスト教世界によって権威づけられた王ではなく、東方キリスト教世界のキエフ・ルーシ系の権威を引き継いだ王であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD
 「リトアニア人のY染色体はハプログループN(ウラル語族に関連)が43.0%、ハプログループR1a(印欧語族サテム語に関連)が36%である。過去のある段階でウラル語族から印欧語族への言語交替が起きたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA
 リトアニア人著名人に(ポーランド王)ヴワディスワフ2世、リトアニア系著名人に、(米独立戦争の)コシューシコ、(イスラエルの)アリエル・シャロン、ネタニヤフ、(米映画監督の)ロバート・ゼメキス、(米映画俳優の)チャールズ・ブロンソン、(米ユダヤ系ミュージシャンの)ボブ・ディラン、らがいる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

 こうした状況のなかで、1242年にバトゥの軍が西方遠征から戻ってきます。
 バトゥと彼が率いるジョチ・ウルスの集団は本国に戻らず、南のステップ、ヴォルガ川下流域に居を構え、そこに都市サライ<(注23)>を建設しました。」

 (注23)「13世紀から15世紀にかけてキプチャク草原を支配したモンゴル遊牧政権、ジョチ・ウルスの首都だった場所。中世には世界最大級の都市で、その人口は最盛期には60万人に達したと見積もられているが、現在は廃墟と化している。
 都市の名はペルシャ語で館・宮殿・オアシス・故郷などを意味するサラーイ(sarā(i))から来ている。漢字では「薩来」と表記される。・・・
 サライの街はカスピ海の北の平原地帯、アフトゥバ川の東岸にあった。この川はヴォルガ川最下流の分流で、ヴォルガから東に分かれ、537km並行しながらヴォルガ・デルタを形成しつつカスピ海に流れる川である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A4_(%E9%83%BD%E5%B8%82)

⇒リトアニアがカトリックを国教としたのは1386年であり、広義の欧州諸国中最も遅かった
http://religion-news.net/2018/10/20/hashimoto744/
ので、リトアニア国ができた時はまだ伝統的民族宗教の国であったところ、ルーシ諸国の西方には、既に966年にカトリックを国教としていたポーランドや、カトリック教会と一心同体であったところのドイツ騎士団、の西からの脅威に、正教国のウラジーミル大公のユーリやヤロスラフは対処しつつ、モンゴルの南と東からの脅威に対処しなければならなかったわけであり、これが、この2人のモンゴル侵攻への煮えきらない対応の一因となったことは否定できないでしょう。
 但し、それは、あくまでも、その一因でしかありませんが・・。(太田)

(続く)