太田述正コラム#13586(2023.7.5)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その14)>(2023.9.30公開)

 「ヤロスラフの死により、ウラジーミル大公の跡目争いが始まりました。
 ルーシの有力な相続原理として一族の年長者に一門、そして公の位を委ねる年長制が古くから存在していました。
 ヤロスラフの弟スヴャトスラフ<(注26)>は存命でしたから、彼がウラジーミル大公の有力相続人でした。

 (注26)1196~1252年。’After a short Grand Duchy in Vladimir, Prince Svyatoslav returned to Yuryev-Polsky. Here he founded a princely monastery in honor of the Archangel Michael.
The holy prince lived the last days of his life pleasing to God, in fasting and prayer, purity and repentance.
There is a tradition that attributes the creation of the Svyatoslav Cross and St. George’s Cathedral in Yuryev-Polsky directly to Svyatoslav Vsevolodovich himself.’
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%B2%D1%8F%D1%82%D0%BE%D1%81%D0%BB%D0%B0%D0%B2_%D0%92%D1%81%D0%B5%D0%B2%D0%BE%D0%BB%D0%BE%D0%B4%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87_(%D0%BA%D0%BD%D1%8F%D0%B7%D1%8C_%D0%B2%D0%BB%D0%B0%D0%B4%D0%B8%D0%BC%D0%B8%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9)
Svyatoslav’s Cross
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%A1%D0%B2%D1%8F%D1%82%D0%BE%D1%81%D0%BB%D0%B0%D0%B2%D0%BE%D0%B2_%D0%BA%D1%80%D0%B5%D1%81%D1%82
St. George’s Cathedral (Yuryev-Polsky)
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%93%D0%B5%D0%BE%D1%80%D0%B3%D0%B8%D0%B5%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9_%D1%81%D0%BE%D0%B1%D0%BE%D1%80_(%D0%AE%D1%80%D1%8C%D0%B5%D0%B2-%D0%9F%D0%BE%D0%BB%D1%8C%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9)

⇒「注26」から窺われる、武人スヴャトスラフの正教徒としての信心深い晩年は、その2世紀半ほど前の日本に生きた、武人源満仲、の天台宗宗徒としての信心深い晩年(コラム#13549)を思い出させますね。
 なお、彫刻家・建築家でもあったらしいスヴャトスラフは、腕っぷしと悪事だけしか残っていないところの、満仲(上掲)より、一見、教養人としてははるかに上のようです。
 (なお、このあたりの登場人物達については邦語ウィキペディアがないので、露語ウィキペディアをグーグル英訳したものを参照しました。)(太田)

 しかし、場合によっては物故者の弟よりも、兄の子や本人の子などのほうが齢を重ねていることもあり、かねてから公位の相続は物故者の弟たちと甥たちの間でも争われることがたびたび生じていました。
 今回はまずスヴャトスラフが大公となりましたが、これをヤロスラフの子ミハイル<(注27)>が強奪しました。

 (注27)1229~1248年。
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9C%D0%B8%D1%85%D0%B0%D0%B8%D0%BB_%D0%AF%D1%80%D0%BE%D1%81%D0%BB%D0%B0%D0%B2%D0%B8%D1%87_%D0%A5%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%B1%D1%80%D0%B8%D1%82

 ところがその兄アレクサンドルと弟アンドレイが、バトゥに訴え出る形で大公位を要求します(1247年)。
 ただしバトゥはそれに応じず、両者をモンゴルの本国に送りました。
 本国の裁定に委ねたようです。
 この間、1248年にミハイルがリトアニアで戦死し<(注28)>、追放されたスヴャトスラフが大公に復位しました。

 (注28)’In 1248, Michael expelled Svyatoslav from Vladimir and took the grand ducal table himself, but in the same year “Mikhail Yaroslavich was killed by Lithuania on Porotva” . Immediately after this, the Lithuanians were stopped in the battle of Zubtsov.’(上掲)

 次の年になると、アンドレイとアレクサンドルが大カアンによりそれぞれ、「ウラジーミル公」、「キエフと全ルーシの公」と認められた上で帰還を果たしました。」(26)

⇒モンゴルに貢納したとて、ルーシ諸公国に対する西からの脅威に対処するのにモンゴルが加勢してくれるわけでは必ずしもなく、基本的にカネはとられっぱなしなわけですから、ルーシ諸公国はかわいそうと言えばかわいそうですね。(太田)

(続く)