太田述正コラム#13590(2023.7.7)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その16)>(2023.10.2公開)
「・・・年代記等で目だって語られるのが、モンゴルによる都市の破壊です。
軍の派遣で略奪や住民の連行が生じました。・・・
⇒著者が、連行目的が、身代金目的の場合もあるところ、奴隷としての使用や売却でもあったと直ちに書かないのは困ったことです。
とまれ、「略奪や住民の連行」は、ロシア軍が、先の大戦後のソ連が満州で日本人達に対してやったことや、現在のウクライナでウクライナ人達に対してやったことは全く同じですね。
彼らは、戦時における自分達の軍隊の行動様式を、13世紀の時点で刷り込まれた、というわけです。(太田)
スズダリ、ペレヤスラヴリ、ムロム、ヤロスラヴリ、チェルニゴフなどの都市の地層では、タタールの焼き討ち跡を意味する炭の層がはっきりと残るケースがあります。
そしてこれが見いだされないケースも含めて、13世紀の地層からの出土品は貧弱です。・・・
また・・・石造の建築物が百年程度新規に現れなかったことが知られています。・・・
北東ルーシの371の村落のうち、モンゴルの侵攻に耐えて14~15世紀まで残ったものは46だけでした。
西部のスモレンスクについては、・・・11~13世紀の89の村落のうち、52の村だけが14~15世紀にも残ったとのことです。・・・
南ルーシでも状況は同じで、モンゴル侵攻以前からの村落の多くが滅びました。・・・
また現在のウクライナ西部にも当てはまります。
ところが、おそらくは上記荒廃地域からの移住などの結果として、相対的に被害の少なかった地域において村落数が拡大している場所があるのです。
モスクワ、トヴェリ、ヤロスラヴリ、またブリャンスクなどのデスナ川中流域では、14~15世紀に生じた村落が多数発見されています。・・・
結果としてモスクワを中心とする北東ルーシ諸公国体制が形成され、これがさらにあとになってロシアに転じることになるのです。・・・
⇒キエフからモスクワへの「キエフ」・ルーシの中心の移動は、モンゴルの侵攻が肥沃な草原地帯をルートとして行われたことや、当初の侵攻対象がルーシ諸国というよりは、その先の中・西欧であったことから、荒廃したのが広義のキエフ地区であったことに加え、広義のモスクワ地区のルーシが積極的にモンゴルにすり寄ったことにより、相対的に荒廃を免れたことと、広義のキエフ地区のルーシの人々が広義のモスクワ地区に難民として流入した、ことによる、と、取敢えず言えそうです。
現在のロシアとウクライナの反目もまた、13世紀にまで遡りうるのかもしれませんね。(太田)
タタール軍により捕虜として連れ出された・・・多くのルーシ人・・・はタタールが支配する各地で奴隷や従者として使用されましたが、ほかにもドナウ方面、そしてエジプトやビザンツ、シリアに売却されています。」(40~42、44)
⇒このように、ようやく、しかし、簡単過ぎるところの、「住民の連行」の目的、が記されています。
この際、私のずっと以前からの見解を、ここで改めて紹介しておきましょう。↓
「私は、ロシアの13世紀以降の内外政の基本は、モンゴルの軛のトラウマによって説明できるし、説明すべきだ、考えています。
すなわち、ロシアは、内政に関しては、内部分裂によってモンゴルの軛の苦痛・・最たるものはモンゴルによるロシア人の奴隷化目的での拉致・・を増幅し長引かせてしまったところ、二度とそれを繰り返さないために、強力な最高指導者による専制を是とするとともに、外政に関しては、二度と外部勢力によって支配されないようにするために、外部勢力に対する緩衝地帯の増大にひたすら務めるという衝動にかられてきた、というわけです。
ところが、欧米のロシア通は、モンゴルの軛を無視こそしないものの、それを、ロシアの特異な内外政治史をもたらした要因の一つ程度に矮小化する傾向が見られます。
・・・「ユーラシア主義」という・・・胡散臭い代物を重視<したり>するのは、その一つの典型です。
私見では、欧米の知識人達は、自分達が、かつて、アメリカ大陸での黒人奴隷の酷使やその黒人奴隷貿易を行ったことを口先では反省して見せるものの、それが黒人奴隷及びその子孫達に対していかに深刻なトラウマをもたらしたか、という事実から目を背け続けており、それが故に、奴隷化がロシア人にもたらしたトラウマに気付くことに心理的ブレーキが働いてる、のです。
また、ロシアの知識人達は、内心差別意識を抱いている有色人種のモンゴルに支配されただけでなく、奴隷化までされ<(、更には、相当広範に混血化し)>たことに、大変な屈辱感を持っており、やはり、モンゴルの軛を矮小化する傾向が見られるのです。」(コラム#8711)(太田)
(続く)