太田述正コラム#13596(2023.7.10)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その19)>(2023.10.5公開)


[タンネンベルクの戦い]

一 タンネンベルクの戦い(1410年)

 「トクタミシュの子供のひとりは、タンネンベルクの戦いで知られるジャラールッディーン<(注37)>である。」(上掲)という記述に誘われて、表記・・ポーランドではグルンヴァルトの戦い・・を調べてみた。

 (注37)「ジャラールッディーンの父のトクタミシュ・ハンはかつてジョチ・ウルスの再統一に成功しながら、中央アジアのティムールと対立して没落した人物であった。トクタミシュは没落後もリトアニアの支援を受けてジョチ・ウルス君主の座を再度狙っており、傀儡ハンを擁立してジョチ・ウルスの実権を握ったマングト部のエディゲとの間で20年近くに渡って抗争が繰り広げていた。
 しかし、1399年のヴォルスクラ川の戦いで敗れたトクタミシュは劣勢となり、ハン位を取り戻せないままに1405年〜1407年頃死去した。トクタミシュの後を継いだのがジャラールッディーンで、ジャラールッディーンはエディゲとの抗争を続ける一方で、1410年にはリトアニア大公の指揮下でタンネンベルクの戦いにも参加するなど、各所で活躍していた。
 一方、この頃エディゲの傀儡ハンであったテムルは現状に不満を募らせ、・・・1411年・・・にエディゲを攻撃し、エディゲはホラズム地方に逃れざるをえなくなった。これを好機と見たジャラールッディーンはリトアニアの支援を受けたジョチ・ウルスに帰還し、テムル・ハンを打倒してトクタミシュ家にハン位を取り戻した。
 しかし、ロシアの『ニコン年代記』によると、・・・殺害されてしまったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3_(%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%81%E5%AE%B6)

⇒トクタミシュをハンとする邦語ウィキペディアとそれを否定する著書と、どちらが正しいのか?(太田)

 「ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争中の1410年7月15日、ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(ヨガイラ)率いるポーランド王国軍とヴィータウタス<(注37)>率いるリトアニア大公国軍の連合軍が、ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン率いるドイツ騎士団を破った戦い。

 (注37)Vytautas(1352~1430年)。「父が従兄弟のヨガイラ(後のポーランド王ヴワディスワフ2世)と大公の地位をめぐって敗れて殺されると、プロイセンに亡命する。その後、1384年にヨガイラと和睦して帰国した。ジョチ・ウルスの内戦に際しては、トクタミシュを支持し、彼のグループと同盟関係を結んだ。
 1385年にヨガイラがポーランド王として即位すると、実質的にリトアニアの統治を任され、バルト海や黒海方面に勢力を拡大した。1401年、ヴワディスワフ2世から正式にリトアニア大公の位を譲られて即位する。その後はポーランド・リトアニア連合としてドイツ騎士団に対抗し、1410年にはタンネンベルクの戦いで勝利を収めた。その結果、直後のホロドウォ合同において、ポーランドとリトアニア国家は一層緊密な関係を築くことになった。他方で、娘のソフィアをモスクワ大公ヴァシーリー1世に嫁がせ、その息子ヴァシーリー2世の岳父としてモスクワ大公国の政治に大きな影響力を及ぼしたことも知られる。1430年、79歳で死去。彼の死後、リトアニアはポーランド王国に組み込まれてゆくこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%82%BF%E3%82%B9

 騎士団は、フォン・ユンギンゲンをはじめ幹部のほとんどが戦死するか捕虜となる大敗北を喫した。ポーランド・リトアニア連合軍はさらにドイツ騎士団国の首都マリーエンブルク(現在のマルボルク)まで攻め込んだが、ドイツ騎士団はこのマリーエンブルク包囲戦を耐え抜き、翌年の第一次トルンの和約で領土喪失を最小限に抑えた。両陣営の領土をめぐる戦争は、1422年のメルノの和約まで続いた。しかし騎士団はタンネンベルクで受けた打撃から立ち直り切ることができず、また重い賠償金のために内部抗争が起こり、騎士団国は経済的にも衰退した。こうしてタンネンベルクの戦いは、ポーランド・リトアニア合同が中・東欧における政治的・軍事的な覇権を握る重要な画期と位置付けられている。
 タンネンベルクの戦いは中世<欧州>全体で見ても最大級の戦闘であ<った。>・・・
 <戦力 ヨガイラ側:16,000–39,000人 ドイツ騎士団側:11,000–27,000人
  被害 ヨガイラ:戦死2,000以下 ドイツ騎士団側:戦死8,000 捕虜14,000>
 ポーランドとリトアニアの歴史家は、タンネンベルクの戦いを自国の歴史上で最重要級の事件とみなしている。・・・
 ウクライナでは、ヴィータウタスを東方正教会の擁護者と見なす観点からタンネンベルクの戦いを肯定的に見る向きもある。
 2010年、ウクライナ国立銀行は、タンネンベルクの戦い600周年のために20フリヴニャ記念硬貨を発行した。現在のウクライナでは、少なくとも三つの都市(リヴィウ、ドロホブィチ、イヴァーノ=フランキーウシク)にこの戦いから名前を取った通りがある。・・・
 ベラルーシでも広く歴史上の勝利と受け止められている。・・・
 タンネンベルクの戦いにはポーランド・リトアニア連合軍側に<当時リトアニア領であった>スモレンスク<・・旧スモレンスク公国・・>から3部隊が参加していたので、ロシアではこの戦闘はポーランド人、リトアニア人、ロシア人のドイツ人に対する勝利と見なされている。・・・
 <但し、>この戦いにロシア帝国の前身であるモスクワ大公国が関与していた証拠はない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1410%E5%B9%B4)

⇒この戦いも、現在のロシア対ウクライナ/ベラルーシ(民意)の構図の伏線になっていると言えよう。(太田)

二 タンネンベルクの戦い(1914年)

 「第一次世界大戦が勃発した1914年<、>・・・東部戦線はポーランドの過去3度にわたる分割(ウィーン会議後の再分割を含めると4度)によりドイツ・オーストリア・ロシアは国境線を接しており、ロシアは開戦と同時にドイツ領東プロイセン、およびオーストリア領東ガリツィアに侵攻を開始した。しかしロシアの鉄道は広軌を採用しており、他の欧州地域の標準軌とは路線が接合されておらず、ロシア皇帝を戴く同君連合として事実上の衛星国であったポーランドもまた標準軌であったため気動車や貨車は直接乗り入れることができなかった。また当時ロシアの鉄道の4分の3は単線であった。兵員はロシア国境付近で乗り換える必要があり、軍需物資は中継駅に山積され、積み替えのため大量の人員と労力を要求されることとなった。・・・
 <また、>ロシア軍の兵力はドイツ軍の2倍以上であったが、ロシア軍は無線による指令文に暗号を用いなかったため、ドイツ軍はロシア軍の無線の内容を傍受した。
 戦いの結果、ロシア第2軍は東プロイセンで包囲殲滅され、残ったロシア第1軍はロシア領内への撤退を余儀なくされた。この戦いで注目すべきは、ドイツ軍が鉄道を利用して素早く大量の兵力を移動させ、ドイツの1個軍が、それぞれ自軍の兵力を上回るロシアの2個軍の各個撃破に成功したことである。
 この戦いが実際に行われたのはアレンシュタイン(現:オルシュティン)の南西、タンネンベルク(現:ステンバルク村)周辺数十キロの広大な丘陵ないし平原地帯であり、ルーデンドルフの補佐官であったホフマン中佐の提案によって1410年のタンネンベルクの戦いにちなんで名付けられたものである。歴史的な戦いとは直接の関連こそなかったものの、ドイツ人とロシア人、ゲルマン民族とスラヴ民族のナショナリズムを高めるための物語として使われた。・・・
 この勝利は・・・、ヒンデンブルクとルーデンドルフの軍功として、ドイツ国民に喧伝された。1917年以後のルーデンドルフの独裁やヴァイマル共和国大統領ヒンデンブルクの出現は、このタンネンベルクの英雄というイメージに基づくものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1914%E5%B9%B4)

⇒当時、神聖ローマ帝国は、現在のイタリア北部、スイス、オーストリア、ドイツ、チェコ等を領域としており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD

現在のドイツはおろか、ドイツ語民族意識すらまだなかった(典拠省略)のですから、1410年のタンネンベルクの戦いは、ドイツの戦いではなかった以上、ヒンデンブルク/ルーデンドルフやヒトラーの主張もまた根拠レスだった、と言うべきだろう。(太田)

(続く)