太田述正コラム#13602(2023.7.13)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その22)>(2023.10.8公開)
三 ロシア・コサック
「ロシアのコサックは、古くは1444年の年代記にリャザンの衛兵としてタタールと戦ったコサックとして登場している。
1570年、雷帝イヴァン4世からの指示によって最初の正式のコサック軍ドン・コサックがドン川流域で組織された。ドン・コサックは成人男性の自由選挙で選ばれるアタマンによって率いられた。ロシア・コサックは帝政ロシアの領土拡張に積極的に利用された。16世紀に成立したコサック集団にはほかにヴォルガ・コサックがあった。
16世紀後半のドン・コサックの頭領イェルマークによるシベリア進撃はその後のシベリア・コサック編成およびシベリア開拓の端緒となった。
17世紀以降、イルクーツク、トムスク、ヤクーツク、ペトロパブロフスク・カムチャツキー、オムスク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクなど、現代のウラル、シベリア、極東の主要都市の多くがコサックによって開発された。太平洋への到達に留まらず、1648年にはコサック探検家セミョン・デジニョフがアジア側から北米大陸を発見した。
1637年、ドン・コサックはザポロージャ・コサックとともに、オスマン帝国のアゾフ要塞(現・ロストフ州アゾフ)を攻略した。
17世紀、ロシアの農奴制強化に伴い増大した逃亡農民のコサック加入や、コサック内での階層分化の進展により貧民層コサックが増加し、政府に対する不満が高まった。1670年、ステパン・ラージンを首領とする大反乱が発生。皇帝・教会・商人の船を襲い、奴隷を解放しつつその勢力はカスピ海からヴォルガ川中下流域一帯に及んだ。1671年、ラージンは政府軍に捕えられ処刑された。
1671年以降、ロシアのコサックは帝国の階級制度に組み込まれ、ドン河畔の多くの要塞建設に携わった。
1707年、コサックの蜂起であるブラヴィンの乱が勃発。ロシアは鎮圧に成功したが、これを受けて翌1708年にコサックの自治権を剥奪した。
1773年にはドン・コサックのエメリヤン・プガチョフがウラル・コサックを率いて農民戦争プガチョフの乱を起こしたが、これもロシアにより鎮圧された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF 前掲
「ロシア帝国領内に留まったドン・コサック軍はロシア帝国から認められた南ロシアから東ウクライナの一帯、現在のロストフ、ヴォルゴグラード、ルハーンスク、ドネーツク、ヴォローネシュ、カルムイク共和国一帯を領土としていた。この地域は、帝政時代にはドン軍管州と呼ばれ、ドン・コサックは皇帝へ忠誠を誓い軍務に就く代わりにこの地方での一定の自治を認められていた。中央集権の強いロシア帝国では、このように自治権が認められることはきわめてまれであった。そのため、ドン・コサックは半ば特権階級と化した。ドン軍管州の首都はノヴォチェルカッスク<(注43)>に置かれた。
(注43)「ノヴォチェルカッスクは1805年、ナポレオン戦争でドン・コサックを率いて戦ったロシア帝国の将軍でアタマン(首領)のマトヴェイ・プラートフによって、ドン軍管州の行政中心地として建設された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B9%E3%82%AF
位置。
https://geohack.toolforge.org/geohack.php?language=ja&pagename=%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B9%E3%82%AF¶ms=47_25_N_40_5_E_type:city
弾圧行動としてよく知られたのは、ロシア第一革命中にオデッサで起きた戦艦ポチョムキンの反乱で、ドン・コサック軍が市街において・・・戦艦ポチョムキンの反乱水兵を支持する・・・民衆の武力弾圧を行い大勢の死傷者が出た。
ロシア帝国のドン・コサック軍はロシア帝国の軍隊として働き、数々の戦争に参加した。露土戦争やクリミア戦争での活躍が知られる。また、祖国戦争でも7万のドン・コサック兵がナポレオン軍と戦った。
第一次世界大戦中の1916年には、ドン・コサック軍は150万の兵力を誇り、帝国内で最も強大な軍事組織のひとつとなった。ロシア革命後、ドン・コサック軍は白軍中最大の勢力となり、ラーヴル・コルニーロフの指揮の下赤軍に大きな損害を与えた。しかし、1918年には祖国を追われることとなった。その後もドン・コサック軍はドン軍(Донская армияドンスカーヤ・アールミヤ)として南ロシア軍内で活動を続け、組織を維持した
その後、白軍の敗北によりドン・コサック軍はトルコへ亡命した。この亡命の道は、旧来ロシア帝国に追われたロシアやウクライナのコサックたちの辿った道であった。ドン・コサック軍は、1962年までトルコに居住し、その後は帰国の許されたロシアや<米>国へ移住した者が多かった。・・・
一般に、コサック集団は初期には帝政時代に推し進められた民衆への弾圧や農民の農奴化から逃れるための受け皿としての性格があった。これが度重なるロシア帝国への敗戦ののち、次第に体制側へ転換していき、19世紀には逆に弾圧する側の軍事組織と変貌した。ドン・コサック軍はその代表格であり、しばしば武力を持って民衆の生命を脅かしたため、多くの人々から恐れられ、忌み嫌われた。だが、その背景にはロシア人のコサックに対する差別もあった。
ドン・コサックが弾圧側の代表となっていった背景には、しばしばモスクワを脅かした強大な軍事力と巧みな政治力によりうまく体制側に取り入り、生き残ってきたという経緯があった。これに対し、同じく大きな勢力であったザポロージャ・コサックやヤイク・コサックなどは、他の道を探った結果軍事的・政治的な敗北により亡ぼされていった。ドン・コサックには、ロシア帝国の体制側に取り入ることより他に生き残る道は残されていなかった。
ロシア内戦期にも、ドン・コサック軍は皇帝への忠誠を守った。その結果、ボリシェヴィキとの戦争で赤軍に敵対し、ソ連時代には「悪役」の代表格として嫌われた。ソ連中期にはロシア国内への帰国が認められ、ソ連末期にはその名誉の回復も進んだが、現在でも一般に嫌われる傾向は薄まったとは言えない。また、「コサックの国家」を自認する人の多いウクライナでも、ドン・コサック軍は「悪いロシアのコサック」というレッテルを貼られ、嫌われる傾向が強い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E8%BB%8D
⇒ロシア政府によって作られた軍事組織で、ロシアの侵略の尖兵となって、しばしばロシア政府に対して叛乱を起した点で、ロシア・コサック(ドン・コサック)は、現在のワグネル・グループ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
的なものの原型だと見て良さそうだ。
(但し、ドン・コサックのリーダーは、(ヴァイキングやモンゴルに倣って?)選挙制だったが、ワグネルの場合はそうではない。)
また、現在のウクライナ戦争で、ロシア側がウクライナのルハンスク州とドネツク州の領有に固執しているのは、両州相当地区がドン・コサックの領域であったことによる、とも考えられる。(太田)
(続く)