太田述正コラム#13606(2023.7.15)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その24)>(2023.10.10公開)
「・・・イヴァン3世<(注45)>は<、>・・・<モスクワ大公国の>領土の拡大と統合<、>・・・分領の廃止・縮小<、>・・・戦術の中央統制<、>・・・全国裁判法典の編纂<、>・・・官僚組織の萌芽<の形成、を実現した。>・・・
(注45)イヴァン3世ヴァシーリエヴィチ( Ivan III Vasilevich。1440~1505年)。「イヴァン大帝[(Ivan the Great)]の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて即位時から4倍増とし、強力な統一国家を建設した名君と評価される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B33%E4%B8%96
https://en.wikipedia.org/wiki/Ivan_III_of_Russia ([]内)
「14-15世紀までに、ノヴゴロドにおける私有地の半分以上が30から40程度の限られたボヤールの血族に支配されるようになった。これらの荘園から得られる資源がボヤールの政治的地位を保証した。・・・教会の荘園<も>ノヴゴロドの中でも特に経済的に発展した地域を占めていた。・・・大地主のみならず、ボヤールよりも少ない土地しか有さない・・・階級も存在した。これらの地主は、労働者を搾取することによって収益を得ていた。家事の大部分は奴隷によって担われていたが、長期的には奴隷の総数は減少傾向にあった。金融所得はノヴゴロド公国の終焉に至るまで地主の重要な収入源であり続けた。
学者らの一部は、封建君主は法的な手段で小作農を農地に縛り付けようとしたと主張している。・・・小作農は地主の手を離れる権利を持っていなかった。ボヤールと修道院も同様に小作農の移動を制限しようと試みた。しかし、ルーシでは伝統的に、小作農は負債を完済しさえすれば小作地を離れることができるものとされていた。ただし、その日取りは”St. George’s day in the autumn”の前後の週でなければいけなかった。この伝統はモスクワ大公国がノヴゴロドを併呑した1世紀以上後にイヴァン4世によって「一時的に」停止され、ノヴゴロドでは考えられなかった完全な農奴制が確立された。もちろんこの一時的な停止は永久に解除されず、小作農は・・・1649を以て合法的に農地に縛り付けられ、農奴となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89%E5%85%AC%E5%9B%BD
<領土の拡大と統合について言えば、>北方に広がるノヴゴロド併合(1478年)は、モスクワを、特に軍事面において強化する土台になりました。
併合から10年後、旧ノヴヴゴロドの広大な土地は、教会・修道院の所領を含め、モスクワの新興軍事士族に条件付き保有地(封地)として分配されていったのです。
引き続き生じるリトアニアとの戦争で、この士族軍こそがモスクワの領土を大きく西・南西方面に押し広げる原動力になったことを考えると、ノヴゴロド併合の意味は軽視できません。・・・
<戦術の中央統制について言えば、>それまでのルーシ軍の戦いでは、多くの場合、公自らが戦闘に参加していました。
これは<1380年の>クリコヴォの戦いにおいても言えることでした。
ところがイヴァン3世は、父ヴァシーリーがスズダリ近郊の戦いで捕虜とされたことが記憶にあったからか、戦場での軍事指揮は軍司令官に担わせ、自分は政治・軍事的状況を考慮しながら、全体的な戦略を講じ、事前に作戦を立て、軍司令官を任じ、動員を行い、部隊の集合場所を決め、移動経路を決定しました。
大公は戦場から離れた場所で軍司令官から報告を受け、新たな指令を出すという役割に徹することになったのです。
こうした中央からの指令に従う統率の効いた軍隊は、・・・封地制度に基づく軍事勤務士族層の形成があって成立するものでした。
彼等は大公に仕えることで生計を立てました。
これを支える大量の封地は、くびきからの脱却の過程で生じたノヴゴロドなどの国内統合過程で得られたものでした。」(103~108)
⇒ルーシ諸公国のモスクワ大公国による統一は、モンゴルの侵攻に対してバラバラであったためにルーシ側がなすすべがなかったこと、や、そのモンゴルの勢力減衰がモンゴル、ひいてはジュチ・ウルスの分裂によるところも大きいこと、も背中を押したのでしょうが、私は、前述したように、依然としてモンゴルの軛が継続していたことに加えて、大モスクワ大公国に自然国境が存在しなかったこと、が、同国を、爾後の領域、緩衝地域、の拡大へと駆り立てた、と、考えています。(太田)
(続く)