太田述正コラム#13610(2023.7.17)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その26)>(2023.10.12公開)

 「・・・モンゴル支配下のキエフの・・・名目上の支配権は、1270年代頃までは北東のウラジーミル大公にありました。
 カンがそう定めていました。
 ただし、諸大公はタタール支配下のキエフに行くことはなく、代官を派遣したようです。・・・
 <要は、キエフは、>実質的にはタタールの支配下に置かれていたと見るべきでしょう。・・・
 1299年に<は>ルーシ教会の指導者である全ルーシ府主教マクシム(在位1283~1305年)が、タタールの暴力に耐えかねてキエフを捨て、最終的には北東ルーシのウラジーミルへ居住地を変え<まし>た<(注47)。>・・・

 (注47)「ルーシ全域が混乱していた1249年、南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ公ダニールはローマ教皇インノケンティウス4世から王号を受け、塗油と戴冠を受けた。こうしたダニールの動きに、コンスタンティノープル総主教は脅威を感じる。キエフ府主教は・・・コンスタンティノープル総主教の影響下にあり、コンスタンティノープル総主教の利害の下に動いていた。ダニールの推挙を受けたキエフ府主教キリルでさえもその例外ではなかった。荒廃したキエフからの遷座の行き先を決めるさい、親ローマの旗幟を鮮明にするハールィチ・ヴォルィーニ大公ダニールとは距離を置いたキリル府主教が着目したのは、ローマとの対決姿勢を鮮明にする北東ルーシのウラジーミルであった。
 キリルはウラジーミルへの遷座の準備を精力的に進めたが、実現前に永眠する(1282年)。その後、北東ルーシ諸公の抗争のために遷座は暫く延期されたが、戦乱が収束した1299年、キリルの後継であるキエフ府主教マクシモスはウラジーミルへの遷座を実行した。
 ウラジーミルへの遷座後も「キエフ及び全ルーシの府主教」の称号は維持され、キエフ及びルーシの府主教マクシモスが「ウラジーミル主教」を兼任。それまでのウラジーミル主教はロストフ主教に転出した。これはルーシの安定を志向した府主教座が、自らの称号に「全ルーシ」を加えることによって、ルーシが一体となった安定した姿を理想として提示しようとした意思表示でもあったとされる。「キエフ」の名を残したのは、キエフ以外の都市名を冠した第二府主教座の設置が、ルーシの教会組織の統一性の阻害要因になると判断されたためであった。
 遷座により、モンゴルやローマカトリック諸国からの直接的脅威から免れるという目的は達成された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

 <やがて、>キエフは1362年、あるいは63年にリトアニアの支配下に入りました。
 前年の「青水の戦い」<(注48)>・・・でアルギルダスはタタールを破り、この地からタタールを追い出し、それ以降、彼の子孫が公あるいは代官のような形でこの地を支配していくことになりました。」(132~134)

(注48)「1362年の9月24日から12月25日の間にかけて青水の川(シニュハ川)にてリトアニア大公アルギルダス率いる軍勢と・・・タタール軍との間で行われた会戦<。前者が>決定的な勝利をおさめ・・・、人口希薄なポジーリャと黒海の北部地帯をも含む現在のウクライナの大部分とキエフ(1324年のイルピン川の戦い後の段階で既にリトアニアに帰属していた)がリトアニア大公国の支配下となったことが明白となった。・・・
 1380年のクリコヴォの戦いより遥か以前に生じたリトアニア=ルーシ軍による勝利はジョチ・ウルスの権威を失墜させ、東スラヴ人がタタールの軛から解放される始まりとなった。
 会戦に勝利するやアルギルダスは13世紀半ば以来タタールが支配したキエフとポジーリャを彼等から奪取し、その結果、 黒海に至る遥か南方に拡大させたのである。ジョチ・ウルスのハンはこれ等の地への襲撃を未だに行い、時には貢税が支払われることがあったが、政治的権力を喪失することとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
「1324年<の>・・・イルピン川の戦いはゲディミナス大公率いるリトアニア軍がキエフ公スタニスラフ及びその同盟軍の親兵を撃破した会戦である。ゲディミナスは<ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の>ヴォルィーニを奪取した後にキエフへの遠征を敢行し<たもの。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国<に関しては、>・・・1245年に・・・大公国はジョチ・ウルスの宗主権を受け入れ属国化した<が、>・・・1256年にバトゥが死去すると大公国はジョチ・ウルスの支配を逃れようと幾度か戦った。・・・1259年の2度目のモンゴル侵攻<を受け、>・・・1287年のノガイによる第三次ポーランド侵攻<の後、>・・・チェコ・リトアニア・ドイツ騎士団と同盟を結び、反モンゴル政策を鮮明にした。・・・1392年、最終的にハールィチ公国はポーランド王国領となり、ヴォルィーニ公国はリトアニアの支配下に置かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%9B%BD

⇒「ウクライナ」地域がモンゴルの軛症候群を免れたのは、14世紀初頭まではハールィチ・ヴォルィーニ大公国(ザポロージャ・コサック)が全般的にはモンゴル勢力への抵抗を続けたこと、また、15世紀後半以降は、ウクライナ・コサックがこの抵抗を続けた(前述)こと、かつまた、これらの期間を通じて、モンゴルの侵攻による荒廃状態からの回復が遅れ、モンゴル勢力にとって、人やモノの略奪対象として「ロシア」地域に比して相対的に魅力的ではなかったため、略奪頻度が少なかったからではないか、というのが私の取敢えずの見方です。(太田)

(続く)