太田述正コラム#13612(2023.7.18)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その27)>(2023.10.13公開)
「・・・14世紀にも北東ルーシではキエフ、あるいはキエフ地方への関心は相当に低かったようです。
一例を挙げておくと、モスクワ公ダニール<(注49)>の死の記事において、彼は「ヤロスラフの孫、大フセヴォロド(大巣公)<(注50)>の曽孫」であったとされ、イヴァン(1世)・カリタについても「大アレクサンドルの孫、大ヤロスラフの曽孫」であったと簡潔に記されています。
(注49)ダニール・アレクサンドロヴィチ(1261~1303年)。「初代モスクワ公でリューリク朝モスクワ大公家の祖。ウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーの末子。ユーリー3世、イヴァン1世の父。・・・
当初小さかったモスクワ公国の領域は、ダニールの治世末期までには倍増した。また、彼自身はウラジーミル大公にはならなかった。
死の直前に修道士として剃髪し、・・・1652年にロシア正教会から列聖された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81
(注50)1154~1212年。「父はユーリー・ドルゴルーキー、祖父はウラジーミル2世モノマフ、異母兄はアンドレイ1世。・・・
市民に・・・招かれ初代・・・ウラジーミル大公。短期的にはキエフ大公位にも就いた。・・・
子が多く、大巣公と呼ばれた。・・・
全ルーシの大多数の諸公から「父」と敬われ、キエフを含む全土に絶大な力を振るった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AD%E3%83%893%E4%B8%96
ルーシを開いたとされるリューリク、ルーシのキリスト教化を果たしたウラジーミル<1世>聖公、英主とされるウラジーミル・モノマフ<(注50)(前出)>といったキエフの名君たちに血筋が辿られていないのです。
(注50)1053~1125年(キエフ大公:1113~1125年)。「父はフセヴォロド1世、母は東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘。ヤロスラフ1世の孫。・・・ウラジーミルは三度結婚した。最初の妻ハロルド2世の娘であるウェセックスのギータからはムスチスラフ1世を含む5人の息子を得た。・・・
後世もっとも人気のあるキエフ大公となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB2%E4%B8%96%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%9E%E3%83%95
ギータ・オブ・ウェセックス(Gytha of Wessex。1053?~1098年)。「アングロ・サクソン系<の最後のイギリス>王ハロルド2世・・・の娘<。>・・・1066年、父のハロルド2世がヘイスティングスの戦いで戦死した後、フランドル伯国へと逃亡した。・・・その後に何人かの兄弟姉妹と共に、おじのデンマーク王スヴェン2世(Svend2・・・)の元へと移住したとある。
1074年にルーシの公ウラジーミル・モノマフと結婚し、モノマフとの間に数名の子を生んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
スヴェン2世<(1019~1076年)>は<イギリス>で誕生した。・・・デンマーク最後のヴァイキング王であると同時に、最初の中世の王とも言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B32%E4%B8%96_(%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E7%8E%8B)
⇒モノマフのイギリス王の遺児との結婚は、両者のヴァイキングとしての共通の根っこのことを思えばそう意外なことではなかったのかもしれませんね。
ちなみに、モノマフの長男のムスチスラフ1世の長女は ユトランド伯クヌーズ・レーヴァートと結婚したところの、デンマーク王ヴァルデマー1世の母親、ですし、次女は- ノルウェー王シグルド1世と結婚した後、デンマーク王エリク2世と再婚しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%951%E4%B8%96 (太田)
彼らの血統上のアイデンティティがウラジーミル大公フセヴォロド大巣公の一門への所属にあり、それ以上遡る必要はなかったと理解できるでしょう。
こうして、北東ルーシ諸公の意識においては、キエフとその地域はさながら「異国」に近い存在になっていたと言ってよいのです(ただし、現実のあらゆる諸関係が途切れたというわけではありません。)」(134)
⇒結論はともかくとして、先祖についてフセヴォロドまでしか遡った言及がなされなかったことは理由としては薄弱な気がします。
(旧ヴァイキング系諸勢力を含む)西方からの脅威が高まってきていたことから、リューリク家のヴァイキング出自性を水で薄めるプロパガンダを行う必要がダニールの父のウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキー時代の頃には生じていた可能性も考えられるからです。(太田)
(続く)